日本国内には、まだ暗く重い空気が立ち込めていた。ヘボンをはじめとする外国人宣教師たちは、いつの日にか日本を引き裂く全体主義思想が生まれ、それが戦争へとつながっていくのではないかという予感を抱いていた。平穏な日常生活が続く中にも、それはあちこちで顔を出し、国民を苦しめるのだった。
1889(明治22)年。帝国憲法発布に続き、「教育勅語」が全国の学校で暗唱されるようになった。これは、天皇と国家に忠誠を誓うための言葉で、強制的に教師と生徒に課せられたものであった。暗唱ができない児童は殴られ、炎天下の校庭で直立不動のまま暗唱させられるうちに、貧血を起こして倒れた子も少なからずいたのだった。また、帝国憲法発布の日、文部卿森有礼が皇太神宮不敬の名目で暗殺され、その後不敬事件が跡を絶たなかった。
内村鑑三は教育勅語の誤りを指摘し、そのために不敬罪に当たるとされて、第一高等学校教師を辞めざるを得なくなった。新聞はこの事件を大きく取り上げ、一斉にキリスト教を攻撃し始めた。「キリスト教とは、不敬を教えるもので、極めて危険な思想だ」。このように公然と述べた記者もいた。
76歳になったヘボンは、明治学院の総長の座を井深梶之助に譲り、自らは『聖書辞典』の編集と、横浜に長老教会を設立するという最後の目標に没頭していた。『聖書辞典』は単なる聖書の注解だけでなく、日本人が聖書を楽しく読み、学ぶことができるよう、また優れた内容を照らすためのものとなるはずであった。
1892(明治25)年1月。山本秀煌、奥野昌綱の司式で尾上町6丁目82番地に「指路教会」の献堂式が行われた。「『聖書辞典』が終わったら、国に帰ろうね」。ヘボンは自分と同じく老いた妻に言った。これは少し前から夫婦で話し合ってきたことだった。
彼らの周囲で、驚くほどの速さで日本社会が変化していた。もはやそれはヘボンが望む姿ではなかった。愛する日本の変貌をこれ以上見ていたくないという思いがこみ上げてきた。それに、彼はすでに日本人が自分を含む外人宣教師を必要としていないことをすでに知っていたのである。『聖書辞典』は6月に刊行された。これが彼から日本に贈られる最後のプレゼントであった。
同年10月。いよいよヘボン夫妻がアメリカに帰る日がやってきた。25日の出航に先立ち、指路教会、明治学院、フェリス女学校で送別会が行われた。すでに白い髪とひげをたくわえたフルベッキとバラは、ヘボン夫妻の日本における働きに感謝するとともに、このようなねぎらいの言葉を述べた。「博士の天職は立派に果たされました」。集った人々は万感の思いを込めて、力いっぱい拍手を送った。
横浜の埠頭には教会関係者だけでなく、政府の高官、各界の有識者たち、文学者や芸術家、学校の教師、そしてヘボンの診療所で世話になった一般の人たちが駆けつけてきた。ヘボンはこみ上げる涙で何も見えなくなった。日本人は自分たちをもう必要としていない――などとどうして考えたのだろう。この人たちは、別れを惜しむために波止場がいっぱいになるほど詰めかけてきたではないか。
「ありがとうございました、ヘボン博士」。人々の中から、彼が教えた明治学院の学生たちが出てきて、彼の手を握った。「あなたのおかげで、私たち日本人は自分の国の言葉で聖書が読めます。それから、あなたが作ってくださった和英辞典のおかげで、外国の優れた文学や著書を読めるようになりました」。彼らは、聖書と辞書を高々と差し上げた。
「いつまでも忘れません」。船が岸壁を離れると、どっと人々が押し寄せてきた。「さようなら、ヘボン先生!」。「また会う日まで」。ヘボンは帽子を振った。クララは泣いていた。
やがて埠頭に集まった群衆の姿が見えなくなると、ヘボンは波間に目を注いだ。泡立つ海面に初めて目にした聖書の文面が現れては消え、消えては現れた。(ギュツラフ。あなたの悲願は果たしました。日本の人たちは、自分の言葉で書かれた聖書を読むことができるようになりました)
しかし、ヘボンの胸には使命を終えた満足感と喜びはなく、大きな喪失感があった。それは、自分の愛児を亡くしたときよりも、もっと大きなものであった。さらば日本。また会う日まで。
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<あとがき>
ヘボンの目の前で、日本の社会が大きく変わろうとしていました。いつの間にか日本の中に全体主義が芽生え、やがてそれは軍国主義となって戦争に向かっていったのです。「教育勅語」の強制的な暗唱は多くの児童と教師を苦しめました。内村鑑三が不敬事件を起こしたのもこんな時です。このような日本の姿は、もはやヘボン夫妻が望んだものではありませんでした。
彼は夫人にこう言います。「彼らはもはや外国人宣教師を必要としていない。私たちの役目は終わったのだよ」。ヘボンは帰国前の残り少ない日々、『聖書辞典』の編集と執筆に取り組みます。これは日本人への最後のプレゼントでした。
しかしながら、ヘボン夫妻の出航の日には、予想以上の人が別れを惜しんで埠頭に駆けつけたのです。「ヘボン博士。あなたのおかげで日本人は自分の国の言葉で聖書が読めます」。明治学院の教え子のこの言葉は、ヘボンにとって忘れられない土産になりました。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。