ヘボンは一日の休みもなく、訪れる患者の診療を行い、聖書の翻訳に魂を注ぎ、その間に日本語の研究を続けてきたが、気が付くと、彼の「単語帳」に収録された日本語は膨大なものとなり、そろそろ形にしなくてはならなくなった。
(もうこれは整理して印刷をしてもいいだろう)。彼はそう決意すると、「単語帳」から原稿を作り、辞書を刊行する準備を整えた。しかし、その第一歩を踏み出しかねた。一体その原稿をどうやって、どこで印刷したらいいのだろう?
そんなヘボンの肩を押したのは、岸田吟香との出会いだった。彼は前の年、1864(元治元)年に眼病を患ってヘボンの所にやってきた。衣服はあかだらけ、着物はよれよれというみすぼらしい姿であった。
しかし、この男は漢学を学び、かなりの教養を身につけていたので、ヘボンは心を引かれた。疑問に思っていた日本語のことや文章のことを尋ねるうちに、彼と親しくなった。
吟香は治療に通ううちにヘボンの人柄に感じ入り、ある日、こう申し出た。「先生、私にお仕事を手伝わせてください。何でもしますから」。ヘボンの方でも彼がそばにいてくれると助かるので、早速清書を手伝ってもらうことにした。
そのうち吟香は、ハリスの元秘書だったジョセフ・彦と共同計画を立て、『海外新聞』を発行するなど、出版に手を染めるようになった。この新聞は半紙5、6枚を片綴じして手書きで一枚一枚書くといったものだが、そのうち木版刷りに変わった。
ヘボンはこれを見たときに印刷のヒントを得、その後吟香から出版の知識を得ながら少しずつ西洋式印刷の方へ導いていった。
「ヘボン先生。ぜひ辞書を印刷すべきですよ。私がお助けしますから」。彼がこう言ったことから、ヘボンは準備してきた和英辞典を印刷する決意をした。
まずは出版の費用であるが、自費出版をするだけの経済的余裕のない彼は、本国の「長老教会海外伝道本部」にこのための援助を願い出た。ところが本部からは、「辞書の編集は宣教と直接関係ありと認められません」という拒否の返事が来た。
そこで次に、居留地の友人、知人をはじめ、日本人の識者の間を回り援助を願い出たが、日本の政治的混乱の中で多くの人は苦しい生活を強いられていたので、一人も援助してくれる者はいなかった。
そのうち、彼の窮状を見かねた貿易商人ウォルシ・ホールが手を差し伸べた。彼は印刷と出版の費用を無利子無期限で立て替えてくれた上に、ヘボンの息子サムエルを自分の会社の社員にしてくれたのである。
こうして、いよいよ出版の運びとなったが、ヘボンは印刷をどこでするか、紙をどうやって調達するか見当もつかなかった。そんな時、開成所(幕府が設けた洋学研究のための機関)の役人、堀達之助、西周、箕作麟祥らがH・ピカールの著書のオランダ語部分を和訳した『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』というものを出し、またたく間に売れてしまったというニュースが入ってきた。
ヘボンはこれを聞くやすぐに開成所に行ってみた。そこでは鳥の子紙に鉛製の活字で印刷されていた。よく見ると、活字印刷は英文の方だけで、訳語の漢字とカナ文字はすべて木版だった。
次は紙の問題だった。和紙の優れた点は木版を通して――特に多色刷りでは水ぬれに強いことだった。しかし、辞書向きではなかった。つまり「紙すき」の工程ですきむらが出来やすく、インクがにじんでしまうのである。結局、用紙は絶対にしまずすかぬ洋紙を購入しなくてはならなかった。
そして、問題の印刷である。開成所の機械はオランダから送られたスタンホフ式の簡単なものであり、これは職人の手によるものではなく、役人たちが手探りで試したものだった。活字も、調べてみれば『袖珍辞書』は英和辞書だから見出しの活字だけあれば何とかまかなえたが、ヘボンの辞書は和英辞典なので、その種類ではとても足りなかった。
困り果てたヘボンは、木版漫画『ジャパン・パンチ』を出しているワーグマン社や横浜の英字新聞社『ジャパン・エクスプレス』にも出かけて行き、印刷の現場を見せてもらった。しかし、いずれも活字の種類は乏しく、「イタリック」「ゴチック」大・中・小の各記号もヘボンの辞典の必要を満たしてくれるものではなかった。
結局ヘボンは、日本では自分の辞書『和英語林集成』の印刷が到底不可能であることを痛感せずにはいられなかった。
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<あとがき>
ヘボンはいろいろな人と接する中で、日本人の日常会話を密かに自分の「単語帳」にメモしていたのですが、気が付くと、それは膨大なものになっていました。
実は、彼はいつの日にか日本人のために『和英辞典』を作り、彼らの目を広く外国に向けさせ、外国人と良い関係を作っていけるように援助したいという願いを持っていました。それで、「単語帳」を埋める作業をそろそろこの辺で終了し、辞書を印刷するための段取りを考えたいと思いました。
しかし、一体どうやってこの事業に手をつけてよいか分かりませんでした。こんな時に彼の前に現れたのが、岸田吟香という男でした。彼は落ちぶれて各地をさまよい眼病を患ってヘボンの所にやってきたのでした。
彼はヘボンの人格に打たれ、彼の手伝いをするようになります。素晴らしいことに、彼は印刷の知識を持っていたのです。こうして、吟香の助けを借りて、いよいよヘボンは『和英辞典』の印刷に取りかかるのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。