1860(万延元)年の暮れから、悲惨な事件が次々と起きた。まず11月末に、外国奉行の堀織部正がプロシヤとの条約締結で相手国調査の不十分、条約不備の責任を負わされて切腹した。
日本は長い鎖国のあとでもあり、北ドイツ連邦の事情や日本とプロシヤがどのような関係にあるかも彼にはとても理解できず、追い詰められた末の自害であった。米公使ハリスは日本のために心を砕き、両国の調整に当たっていた。
同じように条約締結に苦慮していたプロシヤ大使オイレンブルク伯は、この交渉をハリスの秘書官ヒュースケンに依頼し、彼の力を借りてようやく締結にこぎ着けたのだった。
しかし、日本国内には外国人を排斥しようとする攘夷(じょうい)派グループの不満が大きくなり、彼らは以前にも増して外国人を抹殺しようという行動に出た。年が明けた1月15日。公使ハリスの秘書官ヒュースケンが麻布で7人の刺客に襲われるというニュースが日本中を駆け巡った。
知らせを聞いて、ヘボンが公使館に駆けつけると、血まみれになったヒュースケンの体がちょうど館内に運び込まれたところだった。もはや病院に運んでも手遅れであることが分かったらしく、そのままフロントの床に横たえられた。
ハリスは両膝をついて屈み込み、その手を握ってやっていた。最後に、ヒュースケンはかすかに目を開いて何やら言おうとした。ハリスがその口元に耳を近づけると、彼はこうつぶやいたという。
(ワタシニ キズヲオワセタヒトタチ ユルシマス ニホンジン アイシテマス)
そして、彼はこと切れた。いつぞや会ったときの人なつこい笑顔と握った手の温かさが思い出され、思わずヘボンは涙にむせんだ。すると、その肩をハリスが優しく抱き寄せるのだった。
ヒュースケンは国葬にされた。外国代表の公使たちは、日本政府が暴力と脅迫を除く手段を真剣に講じるまで公使館から国旗を降ろし、江戸から退却すると宣言した。しかし、「ヒュースケン事件」の後も凶悪な事件が続いた。高輪の英公使館東禅寺に水戸藩の浪士が闇討ちをかけ、館員オリファントや長崎領事モリソンが斬られたのである。
英公使のオルコックは長男フレデリックがブラウンの娘ジュリアと親しくなり、翌年結婚することから、ブラウンやヘボンと日頃親しく付き合っていた。オルコックもヒュースケンの死を深く悲しみ、どうして日本の人たちは外国人を憎み、排斥しようとするのか理解できずにいた。彼が「攘夷派」の浪士に殺されたことを聞くと、顔を曇らせて尋ねた。
「ジョーイとは何ですか?」。ブラウンもヘボンも適切な日本語を思いつかなかった。その時、2人の通訳を務める矢野隆山が紙に大きく字を書いて説明した。
「攘夷とは外国人を日本から追い出そうとする偏った考え方なのです」。「おお」と、彼は首を振った。「私たちは日本人が大好きで日本と友好関係を持ち、交流したいと考えているのに、どうして日本人はわれわれを憎むのですか?」
「日本は長い間国を閉ざし、外国と交流していませんでした。だから外国の人をどうやって受け入れ、どうやって付き合っていったらいいのか分からないのです。それに――全部の日本人がそうではありません。外国人を嫌うのは一部の人たちだけです」。矢野は、つらそうに話した。
ヘボンは、日本の政治形態がよく分かっていなかったので、ミカド(天皇)と将軍について尋ねた。
「天皇は最初から権力の座におられる方。そして、将軍は正しくは『征夷大将軍』と呼ばれ、実際の権力を持っており、この下にそれぞれの藩を所有する大名がおります」
この時、初めてヘボンは「攘夷」の夷は自分たち外国人を指すことに気付いた。つまり、外国人を征服するために将軍がいて、その下の大名たちはその命に従っているのだ。
外国人をめぐる殺傷事件は後を絶たず、そのうち日本人にも被害が及ぶようになった。ある時など、禁猟区を歩いていた英国人をとがめた奉行所の役人が発砲されて重傷を負うという事件が起きた。これらの人々は皆ヘボンの診療所に駆け込み、助けられた。そのため、ヘボンは診療所を一時近くの宗興寺に移さなくてはならない事態となったのである。
その年の2月11日。米公使ハリスが成仏寺にやってきた。彼はヒュースケンをしのぶ会を持つと同時に、共に礼拝をしたいと申し入れたのである。そして、次の聖日にブラウン司会、ヘボン説教で礼拝が行われた。この礼拝には関係者だけでなく、成仏寺周辺の住民まで参加しての日本最初の礼拝となったのである。
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<あとがき>
日本人を愛し、平和条約の締結のために努力していたハリスの秘書官ヒュースケンが刺客に襲われ、命を落とした事件は、国内外に大きな衝撃を与えました。しかし、ヒュースケンは最後に自分を傷つけた者を許すこと、そして自分は日本人をこよなく愛していることを告げてこの世を去ったのです。
「ジョーイとは何ですか?」。英公使オルコックが戸惑いつつヘボンに投げつけた問いかけには胸が痛みます。この時、初めてヘボンは「攘夷」の夷が自分たち外国人を指すことを知ります。どんなにショックだったことでしょう。
しかし、彼の日本と日本人を愛する心に変わりはありませんでした。その翌年の2月11日。公使ハリスはヘボンたちが住む成仏寺を訪れ、ヒュースケンをしのびつつ、日本人と欧米人が合同で礼拝を行いたいと申し入れます。
その次の聖日、関係者だけでなく、日本人たちも多数加わって、日本最初の礼拝が行われたのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。