ヤゴロウを得てから、ヘボンの日本語の学習は格段に進んだ。ブラウンの方も助手兼通訳として矢野隆山を雇うことができたので、4人は時間の許す限り膝を突き合わせて日本語の研究に余念がなかった。
この頃には、成仏寺のヘボンの住居兼診療室の本棚にはおびただしい本が並び、訪れる人を驚かせた。彼は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が一番の愛読書で、その理由は各階層の風俗や日常生活が生き生きと描写されていること、そして男女の会話がそのまま日本語学習のテキストになってくれるためであった。
また、頼山陽の『日本外史』も愛読書の一つで、これをじっくり読むことによってライフワークとなる聖書の日本語訳への手掛かりをつかめるような気がした。この他にもヘボンは『古事記』や『万葉集』もよく読んだ。ヘボンにとっては漢字ばかり並んだ字面のほうがなじみやすかったのである。
こうして、読書から知識を得る傍ら、彼は辛抱強く日常生活の会話の中から言葉をすくい取ってメモに書きつけていった。診療に来る患者たち、いろいろなことを質問に来る日本人の医者、学者、そして役人が互いに交わす言葉を彼は一語も漏らすことはなかった。
あの日以来、ヘボンのことが大好きになった花売りの老婆も何かと言葉をかけてくれるので、多くの日本語を学ぶことができた。また、彼は身近なところでは使用人をつかまえて、「コレハ 何デスカ?」「ソレハ 何トイウ物デスカ?」などと尋ね、一日中これを繰り返すので、使用人たちはいささか閉口したようだった。
こうする間にも、彼の「単語帳」には日本語の名詞がギッシリと並んでいった。彼は辞書も文法の教科書も持っていないので、自分で人々と会話し、その中の一語一語の名詞を拾ってノートに書きつけ、分からない単語が出てきたら自分で調べたのだった。
彼はこの「単語帳」を肌身離さず持ち歩いた。このノートの他に、メドハーストの『語彙(ごい)集』も入っていた。中国で宣教しながら日本語を研究したメドハーストは、バタビヤのオランダ商館にあったわずか4冊の日本書籍を借りてその中から日本語を拾い出し、『語彙集』を作ったのであった。これはヘボンの日本語学習の最初のテキストだった。
ヨーロッパの国々ではすでに、権威ある辞書を正確な母国語の基準としようとする努力が払われていた。フランスでも、ドイツでも、英国でも、辞書を完成させた。ヘボンが生まれ育った米国でも『ウェブスター辞書』が出され、ヘボンもこれを使って育ったのである。
しかし、日本では言葉を大切にしようとする意識や、辞書を引いて正しい言葉を学ぼうとする習慣がなかったため、「辞書」と呼ばれるものはまだ出現していなかった。こうしたことを思うにつけ、ヘボンは一日も早く日本人のために辞書を作りたいと考えた。
ヘボンの所に来て教えを乞う医師や学生たちの中には、オランダ語に翻訳した「酸素」「水素」「動脈」「神経」などの知識を持っている者がかなりいることが分かった。彼らの中には蘭学(オランダ語を通して西洋の文化を研究する学問)を学び、西洋の医学を修めたい一心で長崎に修業に行く者もかなりいたのである。
鎖国下の日本の中にあって、オランダ語は唯一許された外国語であった。ヘボンはこれらの若者たちの勤勉さに驚かされた。「日本人は驚くべき国民です。アメリカの大学を出た人たちをもしのぐほどの力を身につけています」。ヘボンは「スピリット・オブ・ミッション」という雑誌にこのような一文を載せている。
そのうち、これらの日本の若者たちは「オランダ語を学ぶ時代」から「欧米人が使う英語を学ぶ時代」へと日本社会が変わりつつある気配を鋭感に感じるようになってきた。そもそも英国は日本にとって未知の国であった。それが、ある事件をきっかけに黒船(英国の艦船)が次々にやってくるようになったのである。
1808年8月15日。見知らぬオランダ船が突然入港した。実は、この船は英国の軍艦フェートン号であり、オランダ船だけが入港を許されていることから日本人を欺いたのである。
日本・オランダ合同の検使たちが確認しようと舟を漕ぎ寄せると、乗組員たちはいきなり舟に飛び移り、検使をねじ伏せ、サーベルで脅し、要求した水と牛10頭を受け取ると立ち去った。
長崎奉行はこの責任をとって切腹。数人の部下もあとを追った。これは「フェートン号事件」として後まで覚えられるようになった。これ以後、幕府は異国船の扱いを強化し、「異国船無二念打払令」を出した。それとともに役人たちにも率先して英語の学習をするよう勧め、欧米人たちと話のできる役人を育てることを始めたのであった。
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<あとがき>
日本に来て間もないヘボンが、多くの書物を買い入れ、特に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』を愛読していたという事実には驚かされます。この頃欧米では、権威ある辞書が次々と出版され、ヘボンも米国で『ウェブスター辞書』を用いて教育を受けたと言っています。
彼らは母国語を大切にし、辞書に基づいて正確な言葉を使えるように子どもたちを教育したのです。こうしたこともあってヘボンは特に「言葉」に対して敏感であったようです。
日本には辞書はおろか、お手本となる教科書もまったくなかったので、彼は診療に来る患者との会話や使用人たちが互いに交わす会話を一つ一つメモし、これに対して質問をしながら日本語を学んでゆきました。この資料が溜まって「単語帳」となり、将来の『和英辞典』の原型となったのです。
ヘボンのこうした努力を見るとき、私たちはもっと日本語を大切にし、美しい言葉が死語にならないよう守っていかねばならないことを教えられます。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。