ルーマニアの教会堂 ①
超モダンなスチャバ・主の降誕正教会
建築家:ドロ・オラシュ 訪問日:2017年3月26、27日
共産主義時代(1945~89年)に苦しんだ人、殺された人々を記念するために建てられた。この場所は殺された人々がまとめて埋められた共同墓地。
シゲットの共産主義時代記念館
訪問日:2017年3月28日
ルーマニアの首都ブカレストは春まだ浅く肌寒い。長旅に備え、乗客はサンドイッチや飲み物を買って列車に乗り込む。午前11時、ノルド駅14番ホームをアナウンスもなく静かに動き出した。ブカレストの町を通過すると間もなく農村地帯、長い冬を越し春が来たばかり、若草がもえ出て、あんずの白い花が満開。緑の草原と黒い土の畑が広がっている。楽しみにしていた鉄道の旅の始まりだ。
北へ北へと出発から数時間、景色はずっと変わらない。少々座り疲れてきた。満席でにぎやかだった車内も少しずつ降りて空席が目立つ。赤いラインの入った帽子をかぶった車掌さん、お腹の突き出た姿が絵本に出てくる車掌さんのようだ。あちこちに村の教会が見える。夕暮れが近づく。
スチャバ周辺のブコヴィナ地方には、外壁にフレスコ画の描かれた「5つの修道院」があり、世界遺産に登録されている。翌日、これらの修道院を巡り、ホテルに戻る途中、車窓から偶然見つけたのが、この黒いドームと突き出たユニークな屋根の教会だ。夕闇で暗くなったため、翌朝再度見ることにした。
この教会は共産主義時代(1945~89年)に苦しんだ人、殺された人々を記念するために建てられた。この場所は、殺された人々がまとめて埋められた共同墓地であった。
管理人に頼んで、特別にカギを開けてもらい、内部を見学させていただくことができた。地下1階、地上2階建ての建物は、1994年に建築家ドロ・オラシュによって設計された。地面にお椀を伏せたような黒いドーム、半円形の窓のついた奇妙な形の突き出た屋根は、見る方向によって違った表情を見せている。
内部の絵は1人の老画家が描いているという。完成予想図が壁に掛けられてあり、地下はミュージアムの予定、2階はペインティングの工事中で、塔部は梯子(はしご)を上って見せてくれた。
外観
礼拝堂内観
シゲットの共産主義時代記念館
訪問日:2017年3月28日
シゲット(シゲット・マルマツィエイ)は、ルーマニアの一番北に位置し、ウクライナとの国境に接しているマラムレシュ地方の町。われわれは前日スチャバからウクライナに入国し、美しい古都チェルノフッチィを訪ね、再びルーマニアのシゲットに入国した。国境の検問は大変厳しく、車の長い列が続き、国境を越えるのに2時間くらいかかるようだ。
シゲットの町にはハンガリー人の教会、正教会、カトリック教会、ユダヤ教会などたくさんの教会や、オーストリアの影響を受けた美しい立派な家が建ち並ぶ。町の中心の自由広場はヨーロッパの雰囲気があり、緑の木々、白、ピンク、クリーム色などの建物が春の日差しを受けて輝いていた。
共産主義時代(1945~89年)
1945年5月8日、第2次世界大戦でナチス・ドイツに与(くみ)したルーマニア王国は、敗戦によってソビエト連邦に占領された。ソビエト連邦の占領下で共産化が推進され、ルーマニア共産党は合法化された。45年から89年まで存続したルーマニア社会主義共和国の一党独裁政党である。
89年12月25日、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクと彼の妻エレナは、短時間の見せしめ裁判後、即座に処刑された。最後の東欧スターリン主義政権の1つの崩壊をもたらした。
35歳のガイド氏は、その当時のことは思い出したくないと言いながら、「僕はまだ6歳の少年だった。冬の朝4時に起きて食料を買うために、弟たちを面倒見ながら寒い中長蛇の列に毎日並んでいたよ。両親は働きに駆り出されていたから、それが僕の仕事だったんだ」と大変ひもじいつらい過去を話してくれた。胸が痛んだ。
解放後、国民はお腹いっぱい食べることで、嫌な時代、あの飢餓の記憶を忘れようとしているようだ。確かにルーマニアの人々は男女問わず体格がよく、肥満な方々を多く見かけた。
ルーマニアはローマニアと呼ばれ、ラテン民族の血筋を引いている。ルーマニア語はラテン語系の言語。人々は明るく、温かで親切。特に農村の人たちは素朴で、言葉が通じなくても馬車のそばで写真を撮らせてくれたり、ポーズをとってくれたり、優しい。
周辺の多くの国に占領され、苦しい時代を通ってきたが、その結果、各国のおいしい料理が伝わり、料理天国だ。日本人の口に合うものも多く、ワインもビールも、安いのがうれしい。
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