主の弟子たちの驚くべき変身
ペンテコステ以前の12使徒は惨めな姿をしておりました。愛する主イエスが十字架に付けられたとき、愛する主を敵の手に売り渡したイスカリオテのユダは自殺し果てておりましたし、残りの使徒たちの中で、ヨハネを除き、あとの者たちは皆逃げていってしまいました。
主イエスが、ご自分の十字架上での死とそれに続く復活について予告されたとき、12使徒は3回ともまったく理解することができませんでした(マルコ8:31~33、9:30~32、10:32~34)。
また、主イエスの最期が近付いていたとき、ヤコブとヨハネは、御国で最高の位に着きたいと言って争っておりました(同10:37)。それでは、他の弟子たちはどうであったのかといいますと、彼らもそのことについては無関心でいることができず、腹を立てております(41節)。
主イエスが大祭司カヤパの官邸で裁かれていたとき、主イエスのことを案じてその中庭まで入り込んでいたペテロは、3回も主イエスを知らないと言って否認しております(14:66~72)。
このように弱々しい主の弟子たちが、ある日をきっかけにして、全く別人に変身してしまいます。主イエスが十字架上で死なれ、葬られてから3日目に墓の中から復活され、それから50日目のペンテコステの日になると、そこで祈っていた人々に聖霊が降ってきて、あの意気地なしの弟子たちが一変してしまいます。12使徒の中でも中心的人物であったペテロとヨハネは恐れを知らぬ人となり、力強い主イエスの証人として説教をしています。また、ヤコブは殉教の死を遂げております。
ペテロやヨハネは力強いメッセージをし、多くの人が救われました。メッセージだけではなく、力強い奇跡の業も行っております。生まれながら歩けなかった人を歩けるようにしてやったり(使徒3:1~8)、病人の癒やしや悪霊の追い出しをしたり(5:15~16)、アイネヤを癒やしたり(9:32~34)、死んだタビタを生き返らせたりしております(同36~41節)。コルネリオの家では、異邦人たちにもペンテコステの時と同じことが起こっています(10:44~45、11:15)。
しかし、12使徒だけではありません。教会に最初に立てられた役員(おそらく執事)の1人であるステパノが教会最初の殉教者となっております(7:60)。
そして、そのことを契機として、大迫害がエルサレム教会に加えられたとき、使徒たち以外の人々は地方に散らされて行きました。その時、彼らは御言葉を宣べ伝えながら巡り歩きました(8:4)。彼らが地方へ散らされて行ったのは、迫害のためだったのです。つまり、自分の意志で地方に行ったわけではありませんでした。
自分の意志ではなく、他の力によって地方へ行く人というのは、今日でもいないわけではありません。例えば、会社の意志で地方へ転勤しなければならない場合などがそれでしょう。しかし転勤の場合には、仕事はもちろん、住むところも用意されてあるのですが、迫害の場合には、仕事も住むところも用意されてはおりません。ですから、生活のことを考えれば、住むところはもちろんのこと、仕事も探さなければならないのです。そういうわけで、生活のことを考えれば、伝道どころではないはずです。ところが、彼らはそうではありませんでした。迫害のために未知の地に逃げて行きながら、伝道しているのです。
何が彼らを変身させたのか
彼らが変身したのは、ペンテコステの日からです。それは、主イエスが「あなたがたは、その聖霊を頂き、聖霊の力を与えられるまでは、エルサレムで祈っていなさい」(ルカ24:49、現代訳)と言われたとおり、エルサレムで祈っていた時のことでした。
彼らが祈っていると、突然、激しい風のような音が天から響いてきて、そこにいる人々全体に響きわたりました。また燃える炎のようなものが舌のような形をして一人一人の上に降りました。すると、そこにいた人々が皆、聖霊に満たされ、特異な現象が起こりました。彼らは外国語で神の驚くべき御業について語ったのです(使徒2:1~11)。
それがペンテコステの日に起こったことであり、12使徒だけでなく、一般の信者たちさえも、死の恐れなしに福音を大胆に語るようになったのです。これこそ聖霊体験であり、聖霊のバプテスマを受けたしるしです。
ところで、「聖霊によるバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」とは違います。「聖霊によるバプテスマ」というのは、聖霊によってキリストの体である教会に加えられるわけですから、これは「新生」を意味するバプテスマです(1コリント12:13)。ところが、「聖霊のバプテスマ」というのは、キリストによってなされるバプテスマで、聖霊の力が与えられるものです(マタイ3:11、使1:5、8、2:1~4)。そして、力強い主の働きができるようになるわけです。
聖霊のバプテスマを受けた人は必ず変身します。死の恐れがなくなりますし、伝道への力強い願いが湧いてきます。どんな困難にもめげることなく、力強い生き方をすることができるようになります。信じる者の中に働く神の驚くべき力を体験することができます(エペソ1:19)。その力というのは、キリストを死人の中から復活させた力です(20節)。
この体験は、「聖霊によるバプテスマ」とはいちおう区別されるものですが、この両者を同時に体験することもないわけではありません。「聖霊のバプテスマ」を受けるということは、力強いクリスチャン生活を送っていくためには必要不可欠であると言うことができます。この聖霊体験をした人こそ、主の栄光を現すことのできる人なのです。
これを「ペンテコステ的体験」と呼ぼうが、「聖霊体験」と呼ぼうが、「聖霊のバプテスマ」と呼ぼうが、それは自由ですが、この体験をしないクリスチャンは、弱々しい生き方しかできませんし、いつもほかの人の顔色ばかりをうかがっているか、他の人とトラブルを起こしてばかりいるか、他の人と和解するどころか、他の人を裁いていてばかりいるような生き方しかできません。
ところで、「聖霊のバプテスマを受けた」と言う人の中にも問題のある人がいますが、そういう人は本当に聖霊のバプテスマを受けた人ではありません。本当に聖霊のバプテスマを受けた人は、必ず「聖霊の実」(ガラテヤ5:22~23)を結ぶからです。
真にキリストの香ばしい香りを放つような生き方をしようと思うなら、ぜひともこの体験をすることをお勧めいたします。その時、力強い主の働き人として生きることができるのです。
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