美喜はいつしか20歳の誕生日を迎えた。この頃になると、ひっきりなしに縁談が持ち込まれるようになるが、彼女は少しもその気がなく、あの手、この手を使って壊してしまった。
こんな時、彼女が慕っている加藤の伯母が、外務省勤務でクリスチャンでもある澤田廉三(れんぞう)からの話を持ち込んできた。不思議なことに、美喜は一目見ただけで彼に引かれ、相手も彼女に好意を持ったのだった。
そして、あっという間にこの縁談は整い、1922(大正11)年、2人は明治学院のチャペルで結婚式を挙げた。
やがて12月。廉三はアルゼンチンのブエノスアイレスに勤務することになったので、美喜も随行することになる。この時すでに彼女は身重になっていた。見送りにはたくさんの人々が来てくれたので、美喜は手を振り、にこやかに笑顔を振りまいていたが、ふと、離れた所にぽつんと立っている祖母を見つけて駆け寄った。
「おばあちゃん! 来てくれたのね」。しばらく見ないうちに、祖母は驚くほどやつれて弱々しくなっていたので、彼女は胸を突かれた。祖母は黙って小さな包みを握らせた。
「これは、船酔いしないためのおまじない。これをしっかりおへその上に載せておいで。おまえはおばあちゃんのことなど心配しなくてよい。新しい所で幸せになるんだよ」
美喜は涙を見せまいとしてトイレに駆け込んだ。そして、包みを開いてみると、中に小さな梅干しが入っていた。彼女はそれをしっかりおへその上に載せ、ひもで縛りつけた。
やがて人々の歓声に送られ、船は海に滑り出した。心配してあちこち捜し回っていた夫の廉三は、彼女の泣きはらした目を見て驚いたが、初めて日本を離れるので悲しくなったのだろうと、いたわるようにそっと肩を抱いた。
それから19日間波に揺られた末、ようやくアメリカ大陸に着いた。2人はカナダ、シアトル、ニューヨークと回り、いよいよ南米のブエノスアイレスに着いた。ここは「小パリ」と言われるだけあって、とても美しい町だった。
ここで美喜は多くの友人に恵まれた。特に海軍大臣ドミニク・ガルシア夫妻と親交を深めたことは彼女の益となったのである。
「私たちの理想は世界の平和です。世界中から戦争がなくなり、皆が平和に暮らせるよう私たちは心から願っています」
夫人は身振り手振りでこう言った。そして、立ち上がると、決定的な仕草で美喜の手をつかんで言った。
「戦争はいけません。一番悪いことです。戦争は、負けた国の人も、勝った国の人も同じように惨めにします」
美喜はスペイン語がわずかしかできず、ガルシア夫人の言葉そのものをすべて理解することができなかった。それにもかかわらず、その意味がよく分かったのだった。
澤田廉三が北京転任の通知を受けたとき、美喜は長男信一に続いて2人目の子どもを身ごもっていた。彼女は出産のためにひとまず日本に帰ることになった。しかし、彼女を待ち受けていたのは、悲しい知らせだった。
祖母の喜勢が、長男出産と同じ頃に世を去ったのである。祖母の墓の前で、彼女は涙を流した。(男まさりの、強がりんぼう)。そんな祖母の声が耳元でしたように思った。
北京は平和に見える町だったが、不穏な空気に包まれ、恐ろしい事件が続発していた。そうした中で、彼女は月2回有志の婦人を集めてキリスト教の集会を開いていた。その晩も「朝日軒」という料亭を借りて集会が始まった。ちょうど美喜が司会だったので、聖書を朗読した。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)
すぐ隣の部屋では日本人たちが集まって宴会を開いており、手拍子で歌ったり、大声で怒鳴ったりするので、彼女の声は途切れがちであった。
ところで、この座敷に雇われている女性の中に栄という名の不幸な人がいた。その時、彼女の耳に聞き慣れない言葉が入ってきた。
(・・・すべて重荷を負うて苦労する者は・・・あなたがたを休ませてあげよう・・・)
彼女は隙を見て、隣の部屋に忍び込んだ。「あの、奥さん・・・」と、彼女は帰り支度をしていた美喜におずおずと声をかけた。
「今読んでいらっしゃった本、あれ何ですか?」「ああ、聖書ですよ。よかったらあげます」。そう言って、美喜はこの不幸な女性に聖書をあげてしまった。そしてそれが、彼女を泥沼の人生から救うことになり、彼女はその後天津に渡り、新しい人生を送ることになった。
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<あとがき>
成人した美喜は、やがて外交官の澤田廉三と結婚し、海外生活を送ることになります。最初の任地は南米のブエノスアイレスでした。ここで彼女はたくさんの友人に恵まれますが、忘れられないのは海軍大臣ドミニク・ガルシア夫妻との友情でした。
「戦争は負けた国の人も、勝った国の人も同じように惨めにします」。この夫人の言葉は、生涯美喜の心に深く刻まれたのでした。そして後になって日本が戦争に巻き込まれたとき、この言葉をひしひしとよみがえらせたのです。
また、次の任地北京では、とても不思議な神様のわざがなされます。ある料亭で働いている栄という中国人女性に聖書を与えたことが、彼女を泥沼のような生活から救い出すことになったのです。
伝えられたところによると、水商売と縁を切って天津に帰った彼女は、ある教会で雑役をさせてもらいながら、信者として安らかな日々を送ったということです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(2015年4月、イーグレープ)がある。