四旬節は「悔い改め」の期節ですが、『日本国語大辞典』(小学館)で「悔い改め」を引くと、「以前に悪かった点を反省して、改めること。後悔」とありました。このように定義したのは、われわれは反省して改めようと考えますが、多くは後悔で終わるからでしょう。旧約聖書では「悔い改め」とか「悔い改める」を使わずに、「神に立ち帰る」と表現します。例えば、イザヤ44章22節では、神が民に向かって「わたしに立ち帰れ」と呼び掛けていますから、聖書が述べる「悔い改め」は帰る場所のある「悔い改め」です。しかし、日本語の「悔い改め」にはそれが欠けているため、後悔で終わってしまいがちなのでしょう。
パウロは「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」と説いています(2コリント7:10)。ユダはイエスを裏切って首をつって死にましたが、同じようにイエスを拒んだペトロは初代教皇になっています。どこが違っていたのでしょうか。パウロの言葉を使えば、ペトロは「神の御心に適った悲しみ」を知ることのできた人ですが、ユダは「世の悲しみ」で終わってしまった人でした。この違いをいっそう深く理解するために、ペトロとユダの行動を追ってみましょう。
まず、ペトロです。最後の晩餐が終わってゲツセマネの園に向かう途中、イエスが弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と語ります(マタイ26:31)。ここでの「つまずく」は、「私を捨てる」の意味です。イエスはさらに「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(32節)と続けています。
すると、ペトロがこのように反応します。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(33節)。ペトロはこの時点ではイエスの言葉のうち、最初の「あなたがたは皆わたしにつまずく」という箇所にだけ注目しています。
この時のペトロは、イエスの言葉の後半部、つまり「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(32節)ということを聞き落としています。イエスが「あなたがたより先に行く」と続けたのは、「お前たちよりも先に行って待っているぞ」と言いたかったからでしょう。「皆私につまずくけど、復活した後、ガリラヤに行って待っているぞ」という思いを「あなたがたより先に」という言葉に込めているわけです。「もう一度やり直そう」と言っているのです。しかし、ペトロはそのイエスの思いには全く気付かず、絶対に裏切らない、と繰り返しています。
その後、ペトロはイエスの裁判の行われている大祭司の屋敷の中庭に1人で入り込んでいきました。すると、女中に「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われ、ペトロは「皆の前でそれを打ち消し」ます(70節)。
そこで、あまり人に気付かれないように「門の方に行く」のですが、目ざとく見つけた女中がいて、今度ははっきりと「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と居合わせた人々に証言しました(71節)。ペトロは「そんな人は知らない」と再び打ち消したのですが、ここでは「誓って打ち消した」というように「誓って」が加えられています(72節)。
そこで終わればよかったのですが、そこにいた人々が近寄って来て、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」と言って、証拠を突き付けます(73節)。
その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めましたが、するとすぐ、鶏が鳴きました(74節)。さすがにこの時になってペトロはイエスの言葉、すなわち「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」を思い出しました。
ここでの問題は、ペトロが「激しく泣いた」というこの涙は、どういう涙なのかということです。ペトロはゲツセマネの園に行く前に「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(35節)と豪語していましたから、もちろん後悔の涙、自分の醜さに直面して涙が出たという面があるでしょう。しかし、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」というイエスの予告の言葉だけを思い出したのではありません。その時、ペトロは、「あなたがたより先にガリラヤへ行く」(32節)という言葉の真意に初めて気付いたと考えることもできるからです。その場合、この涙は後悔の涙というよりは、慰められた者の涙になります。私はその可能性が高いと思います。
ホイヴェルス神父が「人が本当に泣いている時には、すでに慰めを受けている」と言われたことがありますが、このペトロの涙は「本当の涙」だったのではないでしょうか。「後悔の涙」というのは、本当には泣けないものです。
ペトロの悲しみは「神の御心に適った悲しみ」「神との関わりを思い起こすことのできた悲しみ」だった。それは「取り消されることのない救いに通じる悔い改め」ですから、慰められているということです。
一方、ユダの場合です。彼の激しい悲しみは「世の悲しみ」ですから、神と関わりが持てずに「死をもたらします」(2コリント7:10)。ペトロが泣いたすぐ後のはずですが、マタイは「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」と書いています(マタイ27:3~5)。
ユダはここで「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(4節)と言っていますが、その後悔は非常に深いものだったでしょう。おそらくユダは、誰との関わりの中で罪を見れば救いへの道があるかということを頭の中では分かっていたと思います。しかし、最後の最後、最も重要な時にそれを信じきれなかったのです。
ユダは「罪を犯しました」と言っているのですが、旧約聖書でダビデがバト・シェバと姦淫(かんいん)してその夫ウリヤを殺した罪を預言者ナタンに指摘された時、「わたしは主に罪を犯した」(サムエル下12:13)と告白しました。しかしユダは「罪を犯しました」としか言えなかったのです。「ダビデの詩」と表題がある詩編51編には「あなたのみにわたしは罪を犯し」(6節)とあります。
罪の問題は、神との関わりだけに解決への道があります。そこでユダが「首をつって死んだ」のは、誰との関わりの中でこの罪を見なければならないかということを教えています。神は赦(ゆる)してくれるということを信じているかということです。最も大事な時にユダは、神との関わりの中でその罪が赦されるということを信じられなかったのです。
われわれがユダやダビデのような状況に陥ったとき、本当に「あなただけは赦してくださる」と告白できるでしょうか。できなければ、首はつらなくても、心は死んでいます。
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雨宮慧(あめみや・さとし)
1943年東京生まれ。83年、教皇庁立聖書研究所卒。カトリック東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授。著書に『旧約聖書のこころ』(正・続、女子パウロ会)『主日の福音』(A年・B年・C年、オリエンス宗教研究所)『呼びかける声―イエスに出会った人々』(聖公会出版)『旧約聖書の預言者たち』(NHKライブラリー)『小石のひびき―主日福音のキーワード』(A年・B年・C年、女子パウロ会)『旧約聖書を語る』(上・下、NHKシリーズ)『旧約聖書を読み解く』(NHKライブラリー)『主日の聖書解説』(A年・B年・C年、教友社)『図解雑学「旧約聖書」』(ナツメ社)『聖書に聞く』(オリエンス宗教研究所)など。