マイケル・パーカーがブランノン・パーカーになる
「企画者」による「正直な考証」と呼ばれている『嫌悪という収穫』の背後にある著者の真偽をめぐる疑惑は、『ORISSA in the CROSSFIRE – Kandhamal Burning (十字砲火の中のオリッサ―燃えるカンダマル)』という別の題名の同じ本が登場したことで確認された。
新しい出版社――Lulu.com――によって電子販売されているこの「新しい」本には、新しい著者もいた。こうして、マイケル・パーカーがブランノン・パーカーになり、この本の内容はほとんど変わりがないのである。だが、この二重のパーカーの逸話で最も衝撃的な要素は、この新しい本につけられた「注」に「インド版のこの本はマイケル・パーカーという著者名で書かれた」と記されていることである。
衝撃的なことに、彼による『十字砲火の中のオリッサ―燃えるカンダマル』の前書きの中で、ブランノン・パーカーは「2009年に、この報告書は民族義勇団の全国理事である、ラム・マドハヴによって米国務省に提出された」と認めているのである(3ページ目の最後の段落)。
民族義勇団(RSS)広報担当者のラム・マドハヴは、2012年に「融和の訪問」のために会う約束をケララ州の教会指導者たちに求めた後、前に出たほうのマイケル・パーカーによる『嫌悪という収穫』という本を「贈呈」していた。これはこの謎の本と幽霊著者の背景に誰がいるのかを示している。マドハヴが最近この唱道活動で賞賛を受け上級指導者としてBJPに委任されたのも不思議ではない。
(香辛料の)サフランのような黄金色に染められたロビー活動によって「カンダマルの正義」というウェブサイトが立ち上げられたにもかかわらず、ブランノン・パーカーによる『十字砲火の中のオリッサ―燃えるカンダマル』だけがそれにリンクされ、その一方でマイケル・パーカーの『嫌悪という収穫』は歴史のゴミ箱に投げ捨てられてしまったのである。この黄金色に染められた集団たちは、この新しい著者を「ヴェーダーンタ・ケサリ・ブランノン・パーカー」と聖者扱いもした(ヴェーダ―ンタとはインド哲学におけるヴェーダ(バラモン教の聖典)の最終的な教説のことで、ケサリとはサフランのことを指す)。
パーカーの本とスワミ・ラクシュマナナンダの殺害
マイケル・パーカーによる『嫌悪という収穫―十字砲火の中のカンダマル』という謎めいた本は、全国人権委員会(NHRC)の「調査報告書」とともに、謎に包まれた殺害の背後でより大きな共謀についての重大な疑惑を提起する衝撃的で不可解なことを素早くたて続けに示しており、そしてそれ(殺害)もまた、(ヒンドゥー教のクリシュナ神の生誕を祝う祭である)ジャンマシュタミの夜に実行されたのである。
『嫌悪という収穫』の160ページ目には、こう記されている。
8月21日 スワミ師が(オリッサ州の)カタックで健康診断を受けた後、(カンダマルの)ジャレスパッタ(アシュラム、ヒンドゥー教の僧の修行所)に帰った。
8月22日 スワミ師が殺人脅迫状について知らせるために交番へ行き、改めて警察に訴え、とり行う措置について尋ねる。担当官は彼の憂慮を矮小化し、彼は心配し過ぎだと非難した。
8月23日 警察がスワミ師に対して任命した付き人の警備員が代理人もなしに午前中に休暇を取る。スワミ師はその後、その晩に暗殺された。
8月24日 殺害されたスワミ師の重要な同僚の一人であるACサフが午前中に葬儀の行進のための準備で忙しくしていたときに、「ある正体不明の人物が彼に近づき・・・赤い布で包まれたある文書を彼に手渡した・・・彼がそれを開けると、彼は驚愕した。その文書はオリヤー語(オリッサ州の公用語)で書かれており、スワミ・ラクシュマナナンダ・サラスワティを消し去るためにオリッサのキリスト教指導者が企んだ陰謀の記録のように見えた(この「文書」は、染められた圧力団体によって、この殺人をキリスト教徒の陰謀であると描こうと吹聴されており、このいかがわしい本の272ページに詳しく述べられている)。
問題のこの文書はベティコラ教会(ベティコラとはカンダマルにある村の名前)の決議で、それはキリスト教徒がこの陰謀を企んでいた証拠として引用された。「その日がスリ・クリシュナ(ヒンドゥー教におけるヴィシュヌ神の第8の化身)降誕祭の前日であり世界ヒンドゥー協会の創立日の前日でもあったことから、彼ら(キリスト教徒たち)の主へ、その嗜虐的な喜びに対して、ヒンドゥー教の僧侶と彼の同僚たちの暗殺された死体を贈るためである」
NHRCの「調査報告書」の106ページには、8月22日に何が起きたのかがもっと明記されている。「2008年8月22日に、スワミ・ラクシュマナナンダ・サラスワティに宛てられたオリヤ―語の脅迫状をマドハブ・ババがジャレスパッタ・アシュラムで受け取った。
このNHRCの報告書によれば、この脅迫状の攻撃は、次のような内容であったという。「俺たちの衆がお前の背後にいてお前の活動を監視している。この手紙を受け取ってから7日以内にお前はこれらの活動から離れておとなしくしてろ。この手紙は最初で最後の手紙だ。もしお前がそれでもこれらの活動にふけるのなら、俺たちはお前をさらって森の中に閉じ込めるが、お前を殺しはしない。敬具」(パハリ・グループ、2008年7月9日)
このNHCRの報告書が述べたところでは、この正体不明のグループによる脅迫に応えて、トゥムディバンド交番担当の警察官が6人の国防市民軍兵を配置し、アシュラムの外にあるテントに泊まっていた10人の巡査が警戒を続けるよう求められた。
ところが、覆面をし拳銃で武装した殺し屋たちがその夜に攻撃を実行しスワミやその他4人を殺したとき、NHRCはそこで武装していなかったその4人の巡査たちのうち、「1人は見張り番をしており、3人はそのテントの中で夕食をとっていた」と説明した。(続く)