ともに祈る
使徒の働き20章36節~38節
[1]序
今回は、20章36~38節を通し、祈りについて改めて教えられたいのです。
36節の文頭に、「こう言い終わって」とあります。エペソ教会の長老たちへの宣教を終えたとき、「パウロはひざまずき」、彼らと共に祈ったのです。
32節で、「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます」と、パウロはエペソ教会の人々のため執り成し祈ると明言しています(参照・『首里福音』424号)。宣教終了直後、その言葉通り実行しているのです。パウロは教えるばかりでなく、祈るのです。
またエペソ教会の長老たち(今日の教会での牧師や役員と言えば当たらずとも遠からず)は、まず祈りをもって彼らの責任を果たして行くのです。
36節、「こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った」で描く「ともに祈る」姿は、この場面にだけでなく、使徒の働き全体を貫き繰り返し見るキリスト者・教会の姿です。教会がともに集い祈る場面、また特定のキリスト者たちが祈り続けている姿を、使徒の働き全体を通しルカは鮮明に描きます。教会がともに祈っている場面の幾つかを以下で注目。
[2]ともに祈る
(1)エルサレム教会の場合
新約聖書に見る最初の教会は、祈りを通し誕生し、形成された事実。参照1章13節と14節、「彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた」。
エルサレム教会は、その後も祈り続けます。「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒2章42節)。彼らはある特定の必要のために、ともに集い祈っています。12章5節、「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」。
ペテロが不思議な導きにより牢から解き放たれ、マルコ・ヨハネの母マリヤの家へ行ったとき、「そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた」(12章12節)とルカは記録。
(2)アンテオケ教会の場合
異邦人宣教のため重要な役割を果たしたアンテオケ教会。アンテオケ教会は祈りの教会です。異邦人宣教のため特別選び別たれたバルナバとサウロ(パウロ)を派遣する際(使徒13章3節、「そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した」)。そしてアンテオケ教会は、異邦人宣教を終始祈り支えていたのです(参照14章26節、「そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった」)。
(3)ピリピ教会の場合
異邦人宣教の結果誕生し形成された異邦人諸教会も、ともに集い祈り続ける祈りの教会でした。たとえばピリピ教会。エルサレム教会と同様、一群の祈る人々の間からピリピ教会は誕生(16章13節、「安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した」)。
パウロとエペソ教会の長老たちが「ともに祈る」。ここに目を据えるべきです。
私たちも、地域集会で数名が「ともに祈る」機会を本当に大切にしました。それこそ教会誕生の第一歩なのですから。また、聖研・祈祷会など「ともに祈る」機会を心して重んじたい。これこそ、主なる神が私たちのために備えてくださる恵みの手段なのですから。
[3]「ひざまずき」
次に、「パウロはひざまずき」と記録されている点を注意。私たちは漠然と祈りについて教えられるのではなく、具体的に教えられる必要があります。
パウロとエペソ教会の長老たちはひざまずき、ともに祈ったと、どのような姿勢で祈ったかルカは記します。
直後の21章5節、「しかし、滞在の日数が尽きると、私たちはそこを出て、旅を続けることにした。彼らはみな、妻や子どももいっしょに、町はずれまで私たちを送って来た。そして、ともに海岸にひざまずいて祈ってから、私たちは互いに別れを告げた」でも。ステパノ(7章60節、「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた」)やペテロ(9章40節、「ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった」)の場合も。
何よりも主イエスご自身の祈りの姿(ルカ22章41節、「そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた」)。
祈りという最も内面的な要素が重視されるべき事柄において、どのような姿勢で祈るか外面的な側面をもルカが描く事実に、意味があると見るべきです。
全能の父なる神の御前で祈る。この時心にある思いは、自然に体を通して外へ現れて来ます。内面的要素が最も重視されるべき祈り。しかし外面的なものがどうあっても良いのではないのです。
ですから、いつ、どこで、どのように祈るかなど、ルカは示唆に富む描写をなしています。その幾つかの点を確認。
(1)時
弱さを持つ私たちは、時を定めることにより助けられます。「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った」(3章1節)とあります。日常生活の忙しさ、場合によっては逆に、単調さに流されやすい私たちです。ペテロやヨハネのごとく、自分なりに時を定め祈るのは、弱さに打ち勝つ恵みの手段です。教会として定例祈祷会の時間を定めているのも、同じく私たちの弱さに対する、主なる神のあわれみの配慮と受け止めるべき。
しかし時を定めると言っても、一定の時に祈りは限定されないのは勿論です。あのピリピの獄屋の場面など印象的です(16章25節、「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」)。
(2)場所
時ばかりでなく、場所も無視できません。「ペテロは祈りをするために屋上に上った」(10章9節)とあります。祈りのため場所を考慮することは、いつでも、どこでも存在なさる生ける神ご自身にとっては必要ないことです。
しかし弱い私たちには、思いを整え、周囲にあまり左右されない場所を定めることは、大いに役立ちます。
その場合も弱い私たちは場所を定め、祈りに集中する配慮を大切にすると同時に、主なる神が思わざる所で、祈りの場を開いてくださる事実も経験させていただきたい。
(3)どのように
ひざまずく、目を閉じる、手を組む、手を上げる、声を出すなど。どのように祈るかについても、できるだけ具体的な配慮が必要です。
心の思いは、ごく自然に形をとって外に現れること。また形は弱い私たちを助け、心の思いを整える助けとなること。この両面を認め、ともに祈り、また各自で祈りの生活を進めたいのです。
[4]結び
「神のご計画の全体」を説き明かし続ける牧師。群れのため祈り続け、群れの役員とともに祈り続ける牧師。
群れの各自とともに祈り続ける役員。群れの各自とともに祈り続けるひとりひとり。そのためにも、まずは定例の祈祷会を大切に。良き習慣の確立(参照『平静の心 オスラー博士講演集』)。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。