第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因
Ⅳ. 両親からの抑圧と諸問題
1)父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地
③真善美、神愛聖、命霊祈、天永滅などの見えざる尊いものへの畏敬心の啓発の欠如
ⅰ. 真善美
c. さて、第一の類型にはもう一つ「美」があります。人間が「真」を求め、「善」を求めて生きなければならないと同時にいま一つ「美」を求めて生きてゆかなければなりません。「美」とは、事物が完全に仕上がり、実に見事に周囲と調和し、しかもその存在が周囲を麗しく装い、人を幸せな思いにさせる極めて良好な状態を言います。
ちなみに、お互い人間が美しい花や自然を見た時、あるいは美しい他人の姿や生き方を目にした時、まことに幸せな気持ちにさせられますが、その理由はそこに「美」が存在するからです。「美」はそれに触れる人々を慰め、癒やし、力づけ、更には喜びと楽しみを与え、幸福な思いに満たしてくれます。これこそ「美」の「美」たる所以です。
しかし、その反対を「醜」と呼びます。ある人が面白いことを言いました。「醜」とは、「鬼が酒を飲んで酔払った状態」を言い、これは実に「醜く」、これを「醜態」と言うのだと。誠に穿った面白いコメントだと思います。
そこで実に人間は美しいものを愛し、美しく生きることによってこそ真に人間らしく、幸せに人生を暮らすことが出来るのです。
さて、以上の如く「真善美」について述べてきましたが、これらに対する畏敬心を両親たちは、我が子がまだ小さい内から、特に3歳位までにしっかりと育成しておくことが大切です。お分かりのことと思いますが、これらの育成は知識としての育成ではなく、感覚若しくは感性の育成です。ですからまだ言葉も知らない、読み書きも出来ない乳児、幼児であっても充分に学習、体得出来るのです。
むしろ知的情報の詰め込まれていない純粋無垢なこの時期の幼子であればこそ、自らの感覚を通して体験される「真善美」の世界をストレートに自らの感性の中に取り込み、受け入れ、体得し成長して行くのです。これは体験的育成であって、体験知です。
ですから生まれながらに知的障害を身に負っていても、彼らもこの「真善美」の幸いな世界を体験することが出来るのです。いやむしろ彼らにとってこそ、この人間としての最も重要な基本的資質の育成が必要不可欠であり、この点の習得能力においては、彼らは決して健常者に優るとも劣ってはいないのです。
ところがどうでしょう。今日の社会においては、大多数の両親たちが自らの大切な子供たちに対して、この重要な基本的育成を、且つ何よりも最優先されるべきこの時期に、育成し損なってしまっているのです。ここに今日の児童教育上の恐るべき社会問題が潜んでいます。
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。