夕日が東シナ海を染めていた。イエス・キリストを信じて八ヶ月目の六月、不思議に落ち着いた気持ちだった。決断を下す時が来たようだ。二年生になった時から胸の中にわいていた思いが、一つの方向に定まってきた。
高校を休学する。それは考えたくないことだった。学校が好きだし、勉強も楽しくなり、友人もたくさんいる。クリスチャンとして学校中に知られ、教会に誘えばいっしょに来てくれる。先輩の中島さんなどは、自分から教会に連れていけと言う。楽しい寮生活。舎監の床次先生も、日曜日だけは門限を大目に見てくれる。先輩の久保田さんは、クリスチャンだったらこれくらいは読んでおけよと、聖書物語やキリスト教関係の本をくれたり、紹介してくれたりと親切だ。もし礼拝をさぼろうものなら、松井、川崎、神園という三人の美人先輩から、きついお叱りが来る。教会へ行くように、みんなが応援してくれていた。
わずか十数人の集まりだが、ハモンド先生を中心に家族的な愛の交わりの西之表キリスト教会。すばらしい先輩や同級生。慕ってくれる後輩の女生徒。教会生活も学校もいつも順風満帆の日々だった。
父は学費を工面するために、山仕事をして現金を稼いでいる。しかし、若い時に徳之島でハブに噛まれた後遺症で、無理はできない。しかも家には寝たきりの病人がいる。
ちょうど同じ時期に、大阪で大工をしていた兄が献身し、神学校に入ることになった。兄はそれまで少なからず仕送りをしてくれていたが、それも入ってこなくなった。お金の工面に苦しんだ父は、少しばかりの持ち山を売って、私の学費に当てようとした。が、田舎のことで、そうお金にもならない。時々家に帰ると、家計の苦しさを感じ、胸の痛む思いがしていた。
「お父さん、学校をしばらく休もうか」と、何度か言おうと思ったが、声にならないまま六月を迎えていた。それがこの日、いつも出かける古城ガ原で、大隈半島に沈む夕日を眺めていた時、胸のつかえがスッと取れるように、休学しようと決断した。
久しぶりに会う父の顔はやつれていた。私はそんな父に「お父さん、しばらく休学するよ。お金が大変なことは分かっているから、何も言わなくていいよ」とぽつりと言った。父はかすれた声で、「そうか。すまないね。学校好きのお前には言いだしにくくて…」と涙ぐんだ。
一学期の終わりが近づいたころ、牧師にそのことを話したら、教会に住んで学校を続けたらよいと言われた。友人たちもしきりに休学を撤回するように、新聞配達のアルバイトを紹介してくれたり、家庭教師の口を捜してくれたりした。いつも慕ってくれた中学三年生の中村文子さんは、「お父さんに頼んでお金出してもらうから、休学なんかしないで、私の家庭教師になって」と、涙を流して引き止めてくれた。校長先生までもが、もう少し早く分かっていればと気づかってくれた。が、もう心は決まっていた。
私の計算では、一年働けば卒業までの学費が稼げるはずだった。休学届けを出し、「種子島高校よ、来年は帰ってくるから待っててくれ」と、いささか時代がかった思いで、母校に別れを告げた。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。