1964年3月29日に新宿伊勢丹デパート屋上で第一回目のイースターの集いが行われて以来、主イエス・キリストにあって一つとされて、教会教派を超えてイースターのつどいが継続的に開催され、今回で50回目を迎えた。同実行委員長の高木康俊氏は、「3月11日の東日本大震災以来、日本は、未曾有の困難に見舞われ、暗闇の中を迷走してきました。しかし、今こそ、主イエス・キリストの復活の事実とメッセージによって、日本が、死の暗闇から解放され、復活し、神の国の福音に満たされる新しい時代に突入する時であると信じます。よみがえられた主イエス・キリストこそ、日本の救いの源であり、希望の光です」と伝えた。
スペシャル・メッセンジャーとしてPBAテレビ・ラジオ牧師の村上宣道氏がイエス・キリストの復活のメッセージを伝えた。復活祭から一週間が経過した15日、村上氏は聖書に書かれてあるイエス・キリストの復活から一週間後に生じた出来事として、弟子のトマスの前にイエス・キリストが現れ、指を入れて確認するように言われた場面を伝えた。村上氏はイエスの復活について「死から復活するということは、ごく身近な人でさえも信じられない程の出来事でした。イエス様の身近にいた弟子たちでさえも信じられない人がいたのですから、イエス様がよみがえられたといわれても、信じられない方は多いと思います。しかしヨハネの福音書11章25節では『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです』と書かれてあります。これが信じる者のうちにも現実となるという事を信じますか?死からよみがえるだけではなくあなたの人生も満たすことがお出来になるお方、それが、聖書が教えるところのイエス様のメッセージです」と説いた。
~聖書における死の意味~
また聖書における死の意味について、「死は聖書において、神様との関係の断絶を意味しています。アダムとエバが罪を犯しました。神からの言いつけを破ったことで、すぐには死にませんでしたが、神様との関係において断絶が始まりました。神様の御顔を見ることができず、伏せながらこそこそと生きるようになってしまいました」と説いた。さらに「霊的な死」について、電柱工事をしているときの電線にたとえて、電源につながって電流が流れていれば「この線は生きている」と言われ、電源につながっておらず電流が流れていなければ「この線は死んでいる」と言われることを例に挙げて説明した。
またルカの福音書15章の放蕩息子のたとえを引用し、「放蕩三昧で分け前を全部使い果たして、豚のえさを食べなければならないほどに落ちぶれた弟は、どうしようもない状態で、みすぼらしい姿をしながらお父さんの家に戻りました。お父さんは玄関で息子の帰りを待ちわびており、『良く帰ってきた』と息子を抱き抱えパーティをしました。放蕩三昧で帰ってきた弟のためにパーティをするのを歓迎しない兄に対し、お父さんは『喜んでいる理由がわからないのか。死んだ息子が生き返ったのに』と言いました。しかし実際死んでいたら息子は帰ってきません。『死んだ息子』というのは、『肉体的に死んでいた』のではなく、『お父さんとの交わりを失ってしまっていた状態』の事を『死んだ状態の息子』と言いました」と説明した。
村上氏は牧師の子どもとして育てられたものの、中学2年生の頃反抗期に至り、本当に神がいるのかと疑うようになり、「なぜ私だけ神様に束縛されていなければならないのか」と思うようになったという。その後神なんかいない、神から自由になりたいと思ったものの、神との関係が断絶されて、死んでしまった状態になってしまったことに後から気づくようになったことを明かした。
パウロは『自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っている。だれがこの死の、からだから、私を救いだしてくれるのでしょうか(ローマ7章)』と伝えている。村上氏はパウロの言葉を引用し、「自分自身が生きていない、本当の自分が生きていない状態のことを死のからだと言いました。本当の私が生きていない。やりたいと思っているのにできない、かえってやりたくないことをしてしまうという、皆さんにもそういう思いはないでしょうか。これではいけないと思いながらも、この世のならわしに振り回されている状態、これは私ではないと思いながら、惰性による生き方をせざるを得ない状態になっていることを聖書では『死のからだ』と表現しています」と説明した。
~死んだ後のさばきがあるという自覚~
また聖書では「死んだらおしまい」ではなく、「一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9・27)」と書かれていること伝え、「死が100パーセント確実であるのと同じく確実なことは、死んだ後神の裁きを受けるということです。『死んだらおしまい』ではなく、死んで後、決着をつけなければならない時がやって来ます。神から離れて、神との断絶の中で本当の自分の道を生きることができないまま、惰性に流されて生きた後に永遠の裁きが待っている私たちに『わたしはよみがえり、いのち。わたしを信じる者は死んでも生きる(ヨハネ11・25)』とおっしゃってくださいました。新たよみがえらされて生きる望みが与えられました。それがキリストの復活です。キリストの復活は私たちの人生をよみがえらせます。キリストによって生まれたときに、本来神様が持っておられるところの計画に沿って最も価値ある人生を生きるように神様はしてくださいます。イエス様にあってどんな人でも生かされるように、用いられるようにしてくださる、神様はそういう名人です」と説いた。
村上氏は神から離れて生きていた時、「どんなに地位があってもどんなに愛し愛された生き方をしても最後には屍になります。自分自身の存在目的、生きる価値がまったくわからなくなっており、意味のあるものなんかないと本当に虚しい生活を送っていましたが、『自分の使命に向かってもう一度生きたい』と思ったとき、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43・4)』という御言葉を読んでことを通して全身鳥肌が立ちました。生きる意味があり、価値があることを知り、全世界を創造された神が私を価値ある者と見なしてくださっていることを知ったときに、まるで人生が変わりました。この方を知らなかったら、まさに人生は虚しいものだったと思います」と証した。
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