「ばあ」が倒れてからは、洗濯も食事も、破れたズボンを繕うことまで、自分のことは自分でやった。やがて私のズボンの繕いがあまりにも不格好なのを見かねた近所のお姉さんが、それからいつも繕ってくれるようになった。自分で書くのもおかしいが、私はいつも大事にされて、周りにはいつも味方になってくれる親切な人がいた。きっと神様は、私が意気地なしだから、愛の手で守ってくれるよう天使を遣わされたのだと思う。
父には優しい面がほとんどなく、私が感じたのは厳しさだけだった。マンガはだめ、村祭りも、年に数度くる活動写真もだめ。浪曲もサーカスも、あんなつまらないものは人を堕落させるだけだと許さなかった。マンガを家に持って帰れないから、借りて読むのがだれよりも速くなり、買った本人よりも詳しいことも多かった。また、アイス・キャンディ売りが来ると、他の子どもたちが先を争って飛び出すので、ある時私も欲しいと思い、五円くださいと言ってみた。父は「あんなものは砂糖水を冷やしただけだ。泉の水のほうがいい」と、相手にもしてくれない。今考えても面白い理屈だと思う。
父はものごとを決める時、正義がどうかをものさしにしていた。不正を許すことができず、相手がだれであれ、恐れることなく、よく面と向かって詰問した。弱い者から搾取したり、だましたりする人を許すことができなかった。情にもろい面もあり、自分が困るのは分かっていながら、食べるに事欠く人に種芋を出して与えたりもした。だからといって感謝されるかと思えば、助けてもらった人ほど悪口を言うことが多かった。
「ばあ」を亡くしてから、父は聖書を読むことに熱中し、伝道にも力を入れた。特に大きな実を結んだのは、南操さんを信仰に導いたことである。南家の息子や娘のうち四名が献身し、生駒聖書学院を卒業した。
晩年の父は、大阪救霊会館に住み、九十九歳と一五六日の人生を終え、天の故郷に帰っていった。父の最後を見取ってくれた孫の恵吏也は、祖父の死にざまを見て、生駒聖書学院に入学し、今は大阪救霊会館で牧師としての道を歩んでいる。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。