12月12日、13日の二日間にわたって東京バプテスト神学校冬期集中公開講座が大久保バプテスト教会(東京都新宿区)で行われた。夏期公開講座に引き続き、神戸アドベンチスト病院院長の山形謙二氏が招かれ、「苦難の意味Ⅱ-死の臨床:キリスト教の視点から」と題した一連の講義が行われた。ホスピス診療の現場に長年携わってきた山形氏は、講義を通して「現代における生と死」にいかに向き合っていくべきかを様々な側面から解説した。
フランスの歴史家フィリップ・アリエスの著書「死と歴史」において、20世紀に入り物質主義が浸透するにつれ、「死」から逃げる姿勢が見えてくるようになり、いつでもその辺にいて、ごくおなじみであった死が姿を消し、死が恥ずべきもの、「タブーの対象」となっていき、人はもはや家族の者達の中で死んでは行かず、病院で、しかも一人で死ぬようになったことが指摘されている。さらに「病院での死」は、死にゆく者が、親戚や友人の集まりの中で儀式を主催する機会とはなりえず、看護の停止により生じる、医師と看護スタッフの決定による技術上の現象と化してしまい、死の主導権が死にゆく本人から押しのけられ、医師と看護スタッフのものとなってしまったことも指摘されている。そのため、現代社会の人々は、ほとんどの場合、病院や施設で死を迎えることになるという現象が見られるようになっていった。
山形氏は日本におけるホスピスの医療界への問題提起として、「死の主人公」は医師と看護スタッフではなく、患者自身であり、「医者と患者の関係において、苦痛を効果的に和らげようとするなら、患者との(スピリチュアルな)関わりを避けることはできない」ことを指摘した。集中講義を通したホスピスケアの医療現場における医師と患者のより良い関わり方に関する洞察が、これから牧師、およびこれから牧師を目指す神学生にとっては、牧会における牧師と信徒の関わりにも参考になる豊富な示唆に富むものとなり、教会で死に直面した家族をケアしたり、信徒の精神的な病をいやし、カウンセリングを行う際に参考となる多様な側面が含まれた講義となった。
~心と心が通じあうカウンセリング~
山形氏はホスピスケア病棟において、死に直面する患者に医師が接する場合、心と心が通じあうカウンセリングの心得が必要であるとし、患者の尊厳を失わないような接し方をする必要があると指摘した。死に至る病に直面する患者の心に添えるように、医師の知識不足は許されない他、人間に対する興味、患者をケアすること自身の中に患者をケアする秘訣があると指摘した。
山形氏はホスピスケアの究極の目標は、「その人らしい生を全うできるように、みんなで援助すること」であり、その目標を達成するために、それを妨げる苦痛をできるだけ取り除いて行くことにあるとし、人間の苦痛には、身体的苦痛、精神的苦痛、社会的苦痛および人生の意味や生きがい、生きる希望等の喪失による実存的苦痛(スピリチュアル・ペイン)があることを説明した。
末期がん治療における身体的苦痛に関して、末期の呼吸苦および末期の全身倦怠感の苦痛の緩和はコントロールが困難であるという。また死を巡る現代の論争としては、末期の鎮静の倫理的判断根拠の問題があるという。末期のがん患者で、いかなる手段によってもコントロールできないような耐えがたい苦痛がある場合、麻酔をかけて眠らせる(鎮静)ことは医療倫理上許されることかどうかという問題もあり、日本は海外と比べ、末期の苦痛緩和に関する規制が厳しくなっており、医療用麻薬消費量も国際比較において日本が米国・カナダ・ドイツなど他先進諸国に比べ極端に少なくなっていることを紹介した。そのため、日本のがん治療は医療用麻薬に対する医療者の認識不足のため、身体的苦痛が多く、患者の苦痛への配慮が欠如されていること指摘し、モルヒネなど医療用麻薬消費に関する正しい理解と適切な使用が国内でも推進されていくことが必要であると述べた。なお、ホスピスにおいては、安楽死は認めず、あくまで苦痛の緩和の目的のための鎮静が行われている。
~身体的苦痛の緩和とスピリチュアルなケアの両方が必要~
またホスピスケアの現場において、身体的苦痛の緩和のみならず、精神的・スピリチュアルなケアも必要になってくるという。人間が死に直面する時、実存的不安が活性化され、スピリチャリティーと実存的問題が、苦難との関係において、医学と相交わるようになってくるという。
死に直面するにあたって、「なぜ自分だけに死に直面しなければならないのか」というような人生と神への怒り、「このようなつらいことが生じるのは当然の報いなのか」という精神的苦しみから、因果応報に代わる理由づけとして「神の罰」として死を捉えたり、だんだん弱く醜くなっていく自分を他者が受け入れてくれるのだろうかという自己卑下の意識が生じ、そのような自己と和解し、人に頼らなければならない自己の状態を受容できるかどうかという精神的問題が生じてくるという。
山形氏は、ホスピスケアの現場におけるスピリチュアル・ケアのチャレンジとして「医師が患者に全身全霊を捧げること、すなわち、十分な思いやりをもってその場に臨むことを実践すること」を挙げた。またスピリチュアルケアの基本はコミュニケーションにあるとし、医師と患者のより良い人間関係を構築していくために、非言語的コミュニケーションを大切にし、相手に時間を与え、傾聴的・理解的・全的サポートを示す態度で接し、患者の固有性を尊重し、誠実な対応を心掛けることが大切であると指摘した。
笑顔での挨拶、明るい表情・振る舞い、共感を示すあいづちなど、非言語的コミュニケーションを良くすることによって、患者に安心感と慰めを与えることができるという。患者主導の関係を構築し、医師が語ることより聞くこと、することより居ること、患者が自分の気持ちを率直に表現し、質問できる様な雰囲気を心がけ、患者の話を理解していることを示し、医師が患者の病気に一緒になって最後まで見捨てることなくベストを尽くす全的サポートの姿勢を示すことが重要であると指摘した。患者の名前を使って呼ぶこと、患者固有の人生に興味をもつことによって、患者の固有性を尊重し、患者に対して真実を尽くすことで信頼関係を構築していくことも効果的であるという。
ホスピスでのスピリチュアルケアの課題としては、孤独をいやすことで愛と和解を与え、絶望をいやすことで生きる希望を与え、虚無感をいやすことで人生の意味と目的を与え、新しい価値観へと患者を目覚めさせることが挙げられるという。そのようにして末期がん患者の「心のいやし」が与えられることがホスピスケアにおいてより重要な意味を成してくるという。
哲学者キルケゴールは「死に至る病とは絶望である」という名言を遺している。山形氏はスピリチュアルケアの課題のひとつとして、患者の絶望からのいやしを与え、生きる希望を支えるケアとして、「小さな目標を立てて、その実現に向かって歩むことが生きがいになり、希望になっていく」と指摘した。
末期がんの患者が陥る三つの実存的不安として「死の不安」、「罪の不安」、「無意味さの不安」があるという。苦難と不安定な状況の最中にあって、意味を見出すことは重要であり、一般的にスピリチュアル的信仰、特に宗教がこの意味と目的を見出す助けとなるといわれているという。
病気が人生を完全に崩壊させ得るような状況下にあって、ある人々は、心配事や状況を、より高い権威や神に委ねることによって、コントロールしているという意識を持ちうるという。同様に、自分の病気を受け入れ、自分の置かれた状況に対処するために、信仰を助けにすることが大切になってくるという。