人間は霊・魂・身体で構成されている
信仰生活における「祈ること」「語ること」について聖書の御言葉に沿って説明し、預言を受ける仕組みについて解説した。重枝氏はまず信仰について「目に見えるところではなく、見えないところを信じるのが信仰(ヘブル11:1)であり、まず私たちは目に見えない霊の存在であることを信じることが必要である」と説いた。
重枝氏は人間の存在について「私達の身体は本質ではない。本質は私達自身には見えない霊にある。身体は霊の住む家である(Ⅰコリント3:16)」と説いた。身体が霊の住む家であるということは直ぐに忘れがちなことであると指摘し、「肉は朽ちて行く家ですが、霊は永遠に生きていくものです。私達には霊があり、魂があって、身体があります(Ⅰテサロニケ5:23)。この3つの部分が私達自身を構成しているということをしっかりと覚えておく必要があります」と説いた。
使徒的実現チャーチでは月に2回預言を受ける訓練も行っている。預言を受けるための最初の課題として「自分の思いであるのか神の御心であるかの区別をすること」が挙げられるという。
続いて重枝氏は霊と魂の区別について説明し、魂は人間の「思い」や「意思」、「感情」を表す部分であり、たとえば自分の意思で何かを勉強すること、誕生日にプレゼントをもらって嬉しいと思う感情などが魂の活動に当たると説いた。一方霊については、人がイエス・キリストを信じた後に御言葉を受けて新しく生まれ変わる必要がある部分である(Ⅱコリント5:17)と説いた。
ヨハネの福音書3章でニコデモがイエス・キリストに「新しく生まれ変わるにはどうすればよいか」と聞いている聖句を取り上げ、「ここでニコデモは身体の事を言っていたのに対し、イエス様は霊のことを言っていた。身体の事を言っていたのであれば、もう一回死んで生まれ変わらなければならないことになってしまう」と説明した。
つまりイエスは神の国は霊において生まれ変わらない限り見ることができないとヨハネ福音書3章で伝えている。重枝氏は「パウロ使徒は『霊のからだがある(Ⅰコリント15:44)』と言っている。 肉のからだに目があるように、私達の内側にある霊のからだにも目がある。その目は敵によって覆われてしまっている。霊において生まれ変わるということは、その覆いが解けて霊の目が開かれるということである」と説いた。
イエス・キリストを信じたときには、霊においての神様との断絶が過ぎ去ったのであって、魂においてはまだ新しくされていない。つまり、イエスを信じたと言ったから何か急激な変化が突然生じるというわけではなく、イエスを信じることによって私達の霊が生まれ変わるようになるが、魂と身体の部分においては何も変わっていないという。
イエス様を信じたときに、霊においての神様との断絶が過ぎ去ったのであって、魂においては新しくされていないという。そのためキリストの信仰では肉の身体の割礼は必要ないが、心の割礼(ローマ2:29)が必要になってくるという。魂が新しくされるためには御言葉を信じ受け入れること(ヤコブ1:21)が必要であると説いた。
重枝氏は、「イエス様を救い主と受け入れて彼が十字架で流した血潮によって、私達の霊が聖められる。神の言葉によって私達の魂が初めて救われる。イエス様をいくら信じても聖書の御言葉による救いを受け入れていない人はいつまでたっても、神の国を見ることができない。そのために、いつも他の人が癒された、打ち破った、恵まれたという体験を聞いても、霊的な体験、霊の打ち破りが他人事となってしまい自分には起こらないままになってしまう」と説いた。魂と身体とは結びついているため、御言葉による魂の癒しがなされると、身体も癒されるようになると説いた。
イエス・キリストを信じ、知性においても心の一新(ローマ12:2)によって聖書の御言葉を正しく霊的にまっすぐに受け取るようになったときに、大きな霊的な打ち破りが起こるようになるという。重枝氏は「日々そのように一つ一つ心に御言葉を蓄えて行くことは、神様に最も喜ばれることである」と勧めた。
預言は内在するイエス・キリストが霊を通して語る働きである
ローマ書12章1節には「身体を神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」と書かれてある。重枝氏は「私達自身を供え物として捧げなさいということは、私達自身の霊が身体を連れていくということ。私達の霊がすべてのことを決定するのであって、私達の魂が決定しているのではない。預言は魂が語るのではなく、内在のイエス・キリストが霊を通して私達の言葉によって出て来るものである」と説いた。
預言の賜物については、聖書には書かれてある(Ⅰコリント14:1)ものの、実際に賜物を受けない限りはその働きについてなかなか理解されにくい。重枝氏自身も教会で預言カフェを運営するにあたって、「なぜそんなに預言がペラペラと出て来るのでしょうか?」と聞かれることがあるという。重枝氏は預言の仕組みを説明した上で「霊的に考えれば上から下りて来る言葉。感覚的には内側から出て来る。内側にあるイエスの霊が語らせる」と説いた。
重枝氏は預言について「預言は祈るようなもの。祈るということは、私達の願望を祈ることもあるが、神様が与えて下さった思い、願いを祈るときにその祈りが聞かれるようになる。なぜならそれは神様の思いだから。預言もこれと似ている。預言というのは、意思をもって行われている。『神様、どうか私にあなたの思い、願いをください』とお祈りすると、神様が言葉を下さる。突然何かが示されて言葉が下るという場合を否定しているわけではないが、多くの場合預言は意思をもってなされる。異言(Ⅰコリント12:10)についても同様であり、突然言葉が出て来ると以前は考えられていたが、最近はそのようには教えない。聖霊の御霊が下ったというそのことを信じて意思を持って口を開くと言うふうに異言については教えられている」と説いた。
信仰は聞くことから始まり、信じて受け入れ、口で告白する(ローマ書10章)。癒しも同じで、「彼の打ち傷によって癒された(イザヤ53:5)」と信じ、自分にもそれが起こると信じるときに癒しがなされるようになると説いた。重枝氏は「皆さんの決断、意思が皆さんの身体を救う。霊において信じて、魂において刷新されるようになることで、霊と同意して身体が癒されるようになる。預言も同じで預言者エリヤが小さな雲(Ⅰ列王記18章)が見えたときに雨が降ると確信して祈ったように、『小さな兆し』を見て信じること、預言においてちょっとした言葉をキャッチして信じて勇気をもって受けた言葉を疑おうとする魂を黙らせ、神を信じるときに大きな打ち破りが起こる」と説いた。
霊、魂と身体で成り立つ人間の心の中には多くの課題が生じている。人の心にはたくさんの考えがあるが、主の御心だけがその人になされるように、預言はその働きを助けるのに役立つと説いた。預言カフェには、自身が受けた祈りの応答を確認するために預言を受けにくるクリスチャンも多いという。
重枝氏は預言について「預言と聖書の御言葉は同じではないがコンセプトとしては同じ。預言者が聖書のコンセプトに反したことを言うのであれば間違った預言になる。御言葉はその人の心の奥底に潜んでいる欲望とか思いを見分けることができる。これは聖霊によってできることであり、私達の力ではできないことである」と説いた。
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