1945年太平洋戦争敗戦時に23歳で海軍少尉であった渡辺氏は、自身の戦争体験を証し、海上で輸送船の護衛に当たっていた間、実際に死を覚悟していたこと、また抽象的に漠然と「死」について考えるのではなく、具体的に自分の死について覚悟するとき、死というものが無意味で無残であり、戦死した事実を海軍省が「壮烈な戦死を遂げた」と事実と全く無関係な作文が作られることについて「死後に私の死をいじくって別のものに仕立てられるということに耐えられないと感じました」と証しした。
「戦争は人を死なせるだけではなく、死の意味を偽り、美化している」と指摘し、戦時中キリスト者であった渡辺氏は、戦時の自身の信仰について「軍国主義の中で危険視されない程度に骨抜きにされていた。死を美化してしまうことを受け入れてしまういいかげんさ、自分自身の思想についていいかげんであった」と証しした。
渡辺氏は「戦中も大量の死と破壊に満ちていたが、戦後も同じく大量の死と破壊が社会に満ちていた」と感じてきたことを伝えた。多数の死者が生じた戦中に海軍少尉として輸送船の護衛艦で指揮を執っていた渡辺氏は、「自分自身が今日こそ死なねばならぬと覚悟する機会」が戦争体験の中で生じ、そのことが、生き方を転換されるほどその後の人生への影響を及ぼしてきたという。それまで「戦争で死ぬための生き方」をしていたのが、「生かされた人間として生かされただけの生き方を『平和ならしむる者は幸いなり』と聖書が語っているように、平和のために奉げる生へ」と戦後に方向転換するに至ったという。
渡辺氏は戦中の敗戦までの自身の考え方の誤りについて「国家の存在を大きいものとして考え過ぎた」こと、「自分の信ずることを曖昧にし、NOと言うべきところでNOと言わない自分がいた」ことを挙げ、「きっぱりそれまでの姿を捨てて生きなければ、戦争に生き残った意味がない」ことを悟ったという。
二度と国家の過ちには与しないことを心に決めた渡辺氏は、戦前の自身が積んできた学問が粗雑で偽りであったことを反省し、「これまで考えて来たことの何が間違っていたのか、自分でえぐり出していかなければならない」と覚悟し、自分の思想と思考の再検討を行うに至ったという。
戦後、神学を学び始めた渡辺氏は「これで良いと思っていた判断のいい加減さを叩き直す訓練を行い、自分をごまかす歩みを悔いて、逆の歩みができるように努めた」という。さらにキリスト教を論じている人たちのいい加減さにも気づくようになったという。敗戦にあって、この敗戦は軍事的な敗北であるだけでなく、むしろ精神的な敗北であるということも益々見えてくるようになり、「明治維新以来の日本国家の方向が誤っていました。それが敗戦という結果となりました。国全体が誤った方向に進んでいくときに、その方向に調子を合わせていたのが、日本のキリスト教であったと確認しました。そして方向の間違いを考えないクリスチャンが今も多いという事は事実だと思っています」と伝えた。
また戦後の戦争責任について、「他の人の失敗の追求よりも先に、私自身の失敗を究明することが重要である」と考え、「自分の戦争責任」に焦点を置いて考えたという。日本のキリスト教はこの間違いを掘り起こして摘発することを怠ってはならないと感じてきたという。渡辺氏は「戦争の時からずっと敗北感が続いてきました。自分自身に関しては、自分を打ちたたきさえすれば、決意した事は何とかやり遂げられると思いますが、自分以外の人を変化させる点ではほとんど何も出来なかったと思います。戦争の中でやっていたごまかしが戦後も続いています。そういうごまかしに気づかなかったわけではありませんでしたが、『やがては良くなるであろう』という楽観が入り込んで、闘いは鈍ってきました。信念はどうにでも作文できます。戦争末期に『徹底抗戦』を論じていた人たちがいますが、そのような『信念』をもって平和のために尽くすと言っている人もいるわけです。『信念があるから貫く』ということでは、貫けないものがあるという事をますます強く感じるようになってきています」と述べた。
次ページはこちら「悲しみが経済的繁栄にすり替えられた第一の敗戦」