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藤崎裕之
1962年高知市生まれ。明治から続くクリスチャン家庭に育つ。88年同志社大学大学院神学研究科卒業。旧約聖書神学専攻。同年、日本基督教団の教師となる。現在、日本基督教団隠退教師、函館ハリストス正教会信徒。
1962年高知市生まれ。明治から続くクリスチャン家庭に育つ。88年同志社大学大学院神学研究科卒業。旧約聖書神学専攻。同年、日本基督教団の教師となる。現在、日本基督教団隠退教師、函館ハリストス正教会信徒。
令和の宗教ブームが来ない。少なくともキリスト教界隈は、コロナ騒動で手痛い「停滞」を余儀なくされた。ような気がする。少しは教会をサボりたいと思いつつ、何となく教会に行っていた者たちにとって、コロナ騒動は良い機会であったのかもしれない。
税は皇帝から課せられたもの。罪はわれわれが積み重ねてきた神への負債。だとして、負債を返さないと、いろいろとペナルティーが課せられる。税金の場合は延滞税となる。利率は市中金利よりずっと高い。
罪は神への負債であるとしたら、われわれは神に対して具体的にどのような借りがあるのだろうか。もちろん、そのようなことは昔から議論されてきただろう。今さら蒸し返すべきことだとは思わないが、とりあえず罪が負債であるという点に絞って考えてみよう。
罪とは何であろうか。「人間は生まれながらに罪を背負っている。イエス・キリストはそのような罪人である人間をお赦(ゆる)しになり、お救いくださる唯一の方」と、まあこれに近いことを幼稚園の頃から教えられてきた。
イエスは来たのだ。あらゆる意味でイエスは来る。それは、光がわれわれに向かってくるがごとくである。実は、光を完全に遮断するのはかなり難しいことだ。夜になれば、少なくとも太陽の光は届かないが、それでも至る所に光はある。
祈るとはどういう事柄であろうか。と考えることはほとんど徒労かもしれない。なぜかといえば、われわれ人間は祈る存在であるからだ。むしろこのように言うべきかもしれない。「いったい人間が祈らなかった時代があるのだろうか」と。
私は船が苦手である。とはいえ、船旅は人生で何度か経験してきたわけであるが、神戸から松山までフェリーで一晩揺られたのが最長記録ではないかと思う。それが25歳の時だった。相当に大きな船で、恐らく1万トンくらいはあったはず。
われわれの宇宙は多元である。これを多元宇宙(マルチバース)論という。早い話が、われわれが知っている宇宙というのは、ものすごくたくさんある宇宙の「一つにすぎない」ということである。
神を超えるのが人間の理想である。故にニーチェは偉いと思う。目標は高くあるべしだ。ところが、悲しいことに神を超えるといえども、その神がどれほどの高みにおられるのかについて、何とも人間は無知なのだ。分かっているようで、実は全く分かっていない。
どういう経緯だったかは分からないとしても、ローマではかなり早い時期からキリストへの信仰を持ったグループがあったのだ。もちろん、パウロよりもずっと早く入信した人がいたであろうことも想像すべきことだ。
「イエス・キリストによる神との平和」が、われわれに希望を与えるとパウロは言う。神との平和とは、何ともつかみようのない言葉ではある。私が思うに、真のグレイトな人間というのは、神との平和よりも、神に打ち勝つことを目指すのではないか。
わが誇りはいずこにありや――。私は「グレイト」な人間になりたいと願っている。「ビッグ」ではなく「グレイト」である。大きいだけでは意味がないのだ。ダントツで褒めたたえられる人間になりたいのだ。自分磨きとはそういうものではないか。
聖書の教えに反しているという諸々のことについては、その気になれば、いくらでも言い訳が可能であるが、それでよいのかという気もする。というのも、聖書を読みながら言い訳を考えるとしたら、そもそも聖書の教えを重んじていないのだろう。
「神を知りながら、神をあがめることも感謝することもせず」(ローマ書1章21節)とパウロは述べているのであるが、現代人としてどのように反論すべきだろう。「神の永遠の力と神性は被造物に現れ」(同20節)ているとパウロは説明する。
神について知り得る事柄は、つまり神の力と神聖(神性)は被造物に現れているのだから、われわれ人間もまたそれを知り得るのであり、「私は神を知りませ〜ん」という弁解はできないというのがパウロの言い分であるような気がする。
命の木はどこに行ったのか。せっかくエデンの園に植えられたものだ。それは「神の命」を象徴しているものだから目に見えなくてよいのだ。と言ったら逃げになるだろうか。もしもわれわれが、命の木に手を伸ばしたら神の主権を侵害してしまうことになるから、考えるに及ばないことなのだろうか。
命と知識、どちらを尊び、どちらに手を伸ばすべきか。問い方を変えよう。知識がないと命は危ういか。そりゃそうだろう。この世で命を保っていくためには知識が必要である。
人間は死ぬ。のだろうと思う。死ななかった人間はいないというのは事実なんだろうが、今生きている人間もいずれ死ぬという前提は、実は生物学的な予測にすぎない。とはいえ、恐らくその予測は当たる。
全くの偶然だった、とは言い難いのであるが、とにかくイエスの生前葬は行われたのだ。恐らくマリアはその時が来るのを待っていたのである。そのために高価な香油をたくさん蓄えていた。塗油は古くから行われている行為で、伝統教会では今も行われている。
イエスが貧しい人々と共にあろうとしたというのは、事実だと思う。その「貧しさ」とは、お金がないことを意味することはもちろんであるが、お金といっても、それはいわゆる現金という意味ではなく、今日を生き延びるために必要な何かということであろう。