不条理なる死を不可知の光で中和せよ─キリスト教スピリチュアルケアとして─(97)
それから長い年月がたち、エジプトの王は死んだが、イスラエルの人々は重い苦役にあえぎ、叫んでいた。重い苦役から助けを求める彼らの叫び声は神のもとに届いた。神はその呻(うめ)きを耳にし、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。(出エジプト記2章23、24節)
ここ数日、ものすごく鬱々(うつうつ)としてどうしようもない気分であった。今は日曜日の夜なので、かなり晴れやかな気持ちである。なぜそうなったかはご想像に任せよう。
教会から帰って妻と一緒に依存症の講演をネットで見ていた。依存症は単なる心の問題にとどまらない。それは昔から知っていたのであるが、改めて学ぶとそれなりに思うところがある。学術の世界では「心は運動から生まれる」という身体論が優勢になってきている。昔は心が先で行動は後であった。具体例を挙げれば、心の有り様が表情に出るというわけだ。
逆に体が動かないと心も動かない的な論も成り立つわけで、例えばであるが、十字を描く(カトリックでは十字を切るという)のが正教のお作法であるが、心が神に向かうときに十字を描くという行動が生まれると言えるのだが、逆にとにかく十字を描くことで心が落ち着いていくというのもまた事実である。
さて、依存症研究の分野では、依存は単なる精神をむしばむだけではなく、身体的に危険を及ぼしているということが実証されている。私もギャンブル依存を伴うアルコール依存だったのでよくよく理解しているが、依存症の末期症状は極度の前頭葉萎縮を伴う。私は自分の前頭葉が萎縮したCT画像を見ているのでそれは確かなことだと断言できる。
前頭葉は知的な機能をつかさどっている。そこには善悪認知も含まれているので、つまり何が言いたいかというと、前頭葉の萎縮が進むと、自分にとってどういう行為が害を及ぼすのか判断できなくなる。アルコール依存をやめられないのは、心が弱いからではなくて、このままアルコールを飲み続けると「死んでしまう」という判断すらできなくなるからである。自覚症状のある人もいるだろうが、酒をやめられないことで自分を責めない方がよい。それはあなたの判断能力が欠如しつつあるだけなのかもしれない。
例によって余談から始めたが、私が強度のギャンブル依存とアルコール依存から抜けられたのは、意志が強かったからでもないし、家族の献身によるものでもない。いまだに「なぜ」だったのかよく分からない。
理由はよく分からないが、いわゆる「どん底」から抜け出せることができた。それをいちいち「神のご加護」だというほどに信仰深くないので申し訳ないと思う。
とはいえ、神のご加護はあるわけで、それが全くないとなると、人生には「理屈と偶然」だけしか残らない。何でもかんでも神の思し召しということはないが、何でもかんでも偶然というわけでもない。分かるようで分わからないのも神のご加護というものだ。
さて、神によるイエスラエルのエジプト脱出である。イスラエル人がエジプトで暮らすようになったのは、400年以上も前に「神のご加護」があったからである。その経緯は、創世記の37章以降を読んでいただきたい。
神のご加護も遠い昔のこと。今やイスラエル人は、エジプトでファラオの奴隷として重い労働を課せられていた。イスラエル人は労働の故にうめき叫んでいた。このうめきと叫びとが意味するものを感じ取らねばならない。
生きる中の苦しみというものはある。苦しみとは単に心がボロボロになっているだけではない。そこには身体的なものもある。身体の酷使はやがて心をズタズタにする。鍛えることと酷使とは全く別物だ。強いられる身体の酷使は、確実に「脳」に響いていくのだ。例えば自分にとって善なる方を忘れるとか。
イスラエル人はファラオの虐げによって、そこから解放されることを神に願っているのではない。願いには相手がある。うめきと叫びには相手がいないのだ。今や彼らは「神」を見失っている。
もちろん、虐げと依存は全く別物なので関連を述べるわけではないが、身体がボロボロになれば、人間の心は壊れるのだ。
神を忘れてしまったイスラエル人を私は責めない。訴える相手がいない状態でうめき叫ぶという経験は理解できる。身体酷使とはまさにそういう状態なのだ。
神は全てを超える故に、われわれには希望がある。私が言えるのは、神を忘れ去ったイスラエル人には神のご加護があったということだ。モーセによってイスラエルが苦しみの地から解放されたのではない。イスラエルが忘れ去っていた「神」によって救われたのだ。主憐(あわ)れめよ。(続く)
◇
















