不条理なる死を不可知の光で中和せよ─キリスト教スピリチュアルケアとして─(94)
墓にイエスの遺体がなくなった。その事実に気付いた婦人たちに天使らは言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」
イエスの遺体がなくなってしまうことに懸念を抱いた人たちがいた。イエスが復活したと信じる人が出てくるかもしれない、それが都合の悪い人たちがいたわけである。マタイ福音書によれば、祭司長たちはピラトに願い出て、イエスの墓を見張るように要請している。誰かがイエスの遺体を盗み出して、あたかも復活したように欺くかもしれないと危惧していたわけである。
キリストは復活した! 合理的には誰も説明できないし、そしてこれは大事な点であるが、別に合理的でなくてもよいと思っているからこそ、キリスト教徒を続けられるような気もする。キリストの復活については「実際の体でないとしてもいろんな解釈があるのだ」と世々の知識人たちはいろいろと物申したくなるみたいではあるが、それはそれで是非はいうまい。
例えば、遠藤周作さんはイエスの復活がどのようなものであったかをかなり合理的に、まあ彼の場合は心理学的にというべきだが、かなり真面目に取り組んでいる。
私が大学生の頃は、キリストの復活よりも神の子としての生き様が大切であって、彼の示した隣人への愛に倣うべきだと教えられた。要するに当時の牧師さんたちにとっては、復活を説明するよりも、イエスの教えや行動を説教する方が簡単だったのではないか、などと言ってはならないことではあるが……。
私が現役の頃は、やはり復活より十字架重視であったと思う。なぜ、十字架重視かといえば、それは「死は復活よりも身近にある」し、共感を得やすいということだ。「神の子イエス・キリストはわれらのためにその命を十字架にささげられた。それは罪深いわれらが罪に定められ、滅ぼされるのではなく、ご自身がわれわれの罪を背負って身代わりに死んでくださるため」であったと。これが、いわゆる十字架の神学である。専門用語で言えば、西方の神学ということになる。
私は十字架の神学を否定はしないが、それで完結されるべきものではないとも思う。教会が東西に分裂するずっと以前のキリスト教会は、信仰とは明らかに神の子復活の主イエス・キリストの命にあずかることが目的であった。
正統信仰の父と呼ばれるアタナシウスによれば「神が人となったのは、人が神になるためであった」と教えている。つまり、イエス・キリストの受肉と十字架、そして復活にあずかるものとしてわれわれの命があるわけであって、単に罪を赦(ゆる)されたということにとどまらない。信仰者はイエス・キリストの死と復活に帰依しなければならないのだ。それが「神が人となったのは、人が神になるためであった」という言葉に表されている。
とはいえ、個々人がキリスト教の根本をどこまで本当に信じているのかどうか、まあこれは大問題ではあるが、しかし、極論を言えば、誰が本当に信じているのかを知っておられるのは神のみである。大概の人は不確かである。ような気がする。個々人は、私は本当に信じているかどうか、それがはっきりしていないだろう。信仰とはおそらくデジタル式、つまりゼロか1ではない。
それでも私はあえていうが、信じる方が人生として穏やかである。それはそうだろう。自分は信じてはいないのだと突き詰めていったところで、何の益もないのだ。どう考えても、私は信じているとした方が穏やかだ。わざわざ自己をネガティブな方向に誘導する必要は何もない。さっさと洗礼を受けて、あとは神頼み、キリスト頼みでよいと思う。
というわけで、キリスト教信仰の根源たる復活を信じるかどうかは、個々人によってはまあまあ曖昧であるとしても、現代キリスト教会は堂々とキリストの復活を祝うべしなのだ。人間は神にはなれないが、それでも「神が人となったのは、人が神になるためであった」というこの神秘に人生を賭けてみる方が平和かつ穏やかであるのは間違いないのだ。「ハリストス死より復活し、死をもって死を滅ぼし、墓にあるものに命をたまえり」。ハリストス復活、実に復活。(続く)
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