不条理なる死を不可知の光で中和せよ─キリスト教スピリチュアルケアとして─(91)
※ 前回「天にお金は積めません(その1)」から続く。
「今」達成できたら、これからは楽になるだろうと思うことがたくさんある。「今」十分な富を手にすることができれば、「将来」は随分と楽になるだろうと言えば、分かりやすいだろうか。実際は「そんなことはありません」という答えしか返ってこないだろう。ある本に書いてあったのだが、「事業を行っている人は結局のところ、事業を終えるまでお金の心配が尽きない」という。当たり前のことだが、目からうろこが取れるような思いがした。
資産数兆円という大富豪について耳にするニュースは、いつまでもお金に関係していることばかりだ。彼らは「事業の成功=富の拡大化」という路線を突き進んでいる。「今」成功して、「将来」も成功するしかない。成功の積み重ねこそが将来を保証するのだろう。
人生は成功しか意味がないといわれれば、その通りであろう。だが、人生の意味などを追いかけている時点で、やはりどこか欲深くなっているのではないだろうか。人生に意味がなくても人生は続くし、続けられるはずだ。
「『今』私は何をすればよいでしょう」。教育が個人に求めているのは、結局こういうことではないのか。確かに、それこそが責任ある生き方なのかもしれない。「『今』私は何をすればよいでしょう」と考えもしない人間とは、付き合うのが難しい。「『今』私は何をすればよいでしょう」と考えることは、現代流でいえば、自己実現か自己啓発なのだろう。まあ、いろいろな表現があるだろう。
永遠の命を受け継ぐために「『今』私は何をすればよいでしょう」と、ある人がイエスに問うた。永遠の命を目的とするなら、イエスに問うのは正解だ。私のような人間に問うべきではないし、ドナルド・トランプでもないし、習近平でもないし、ビル・ゲイツでもイーロン・マスクでもない。イエスにこそふさわしい問いである。
この人は「善い先生」と言ってイエスに尋ねたのだが、イエスはそっけなく、そんなことを私に問うなと言わんばかりの対応をする。「なぜ私を『善い』と言うのか」と。そりゃないぜ、と思う。他に問うべき人がいるのだろうか。それでもイエスは十戒の後半部分を抜粋しながら、当然にそれくらいの戒めは知っているだろうと言う。
この人は、そんなことはあなたに言われなくても、子どもの時から守っていますと言う。私が知りたいのは、そんな初歩ではないということだ。この人が知りたいのは、もっと深みのある答えであって、「今」知るにふさわしく、「将来」を憂いなく生きていける答えなのだ。
キリスト教をなが~く信奉(あえて信仰とは書かない)してきて(私の場合はそれこそ子どもの時からであるが)、何となく最近悟りつつあるのは、「今」知るにふさわしく、「将来」を憂いなく生きていける答えというものは、キリスト教にも「ない」ということだ。
誤解してほしくないのだが、私は、キリスト教にはないが、他の宗教にあると言っているのではない。そんな「答え」がないと言っているのだ。誰にも、もちろん私にも、あなたにも、その「答え」は教えられない。自分で手に入れるしかないと突き放しているのでもない。「将来」を憂いなく生きていける、つまり永遠の命と言い換えてもよいのだが、それを「今」実現できる人はいないのだ。イエスがこの人に実現しなかったのだから、そんなことは当たり前ではないか。
子どもの時から守ってきたことが将来を保証しないというのは、確実なことだ。大変残念だが。なぜなら、戒めを守るというのは将来の保証ではないからだ。なぜ神の戒めがあり、なぜそれを守らなければならなくて、どうして大抵の人はそれを守ろうとするのだろうか。「殺すな、姦淫(かんいん)するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」。完全に守ることはできなくとも、ほとんどの人(キリスト教徒でなくても)が気に留め、守るように尽くしてきたことだ。たとえ、少ししか守れなくてもだ。
イエスは慈しんでこの人に言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい」。この言葉を聞いた人は、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである、と聖書は告げる。何ともやるせない結末だが、われわれはなお先を見なければならない。なぜなら、それでもわれわれは「今」を生き「将来」に望みをつなぎたいからだ。(続く)
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