不条理なる死を不可知の光で中和せよ─キリスト教スピリチュアルケアとして─(92)
※ 前回「天にお金は積めません(その2)」から続く。
悲しみながら去っていった金持ちの男。何ともやるせない気持ちになる。聖書で語られている事柄を、頭の中で映像として思い描くのは難しい。ありがたいことに、聖書の場面はしばしば「絵」として描かれる。「絵」から得られるインスピレーションは何ともありがたい。
悲しみながら立ち去った金持ちの男に関して、何らかの「絵」が残されているかというと、私には記憶がない。しかし、私には悲しみながら立ち去っていた姿が思い浮かんでくる。
求めるものは本物でも、得られるものが益になるとは限らない。私は世襲の信者であるが、長らく教会出席から遠ざかっていた高校生の頃、たまに行く教会にとても期待していた。今になって思い出しても、当時求めていたものは本物であったと思う。
私は立ち去った男と同じように、より良き答えが得られると期待して、「時々」は教会に行った。牧師の説教からは、その都度いろいろと考える機会を与えられた。それは、私が求めていたものとは違ったが、悲しみながら教会を立ち去ったという記憶はない。恵まれていたと思う。
天にお金は積めないということは、誰もが承知している。だから悩むのだ。天に宝を積みなさいと、子どもの頃から教えられてきたが、どのようにしたら天に宝を積めるのか、全く分からなかった。
イエスは金持ちの男に、「持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい」と言われた。イエスがそのように私に言ったわけではないが、お前も同じようにしろ、と言われているような気がする。そう感じるのは、私だけではないだろう。
天に宝は積めない(不信仰なので)が、「将来」には幾ばくかの「宝」を蓄えてきた。将来計画といえば、その通りである。いつ終わるか分からない将来のために、割と真剣に向き合ってきた。
将来のために「宝」を用意していないとしたら、それはわれわれにとって恐怖というか、ものすごく重い不安となる。天に宝を積む前に、まずは「わが老後のために」となる。お金に関しては「神頼み」というわけにいかないのは、われわれの不信仰なのか、はたまた謙虚さのゆえんなのか。
イエスはこの箇所に続く場面で、弟子たちに対し、金持ちが天国に入るのは特に難しいと語った。ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい、とまで言われる。私が思うに、イエスはあえて「自力で」という言葉を省いた。そう、「自力で」とわれわれは絶えず考えている。「何とか自力でこの人生を最後まできちんとやり切りたい」と願っている。自力がかなわないと言われこの人は、悲しみながら立ち去ったのだ。
「信仰とは何事も神に委ねることだ」と教わってきた。確かにその通りである。委ねるということは、自分を明け渡すことでもある。もう少し丁寧に言うと、わが人生を神に生きていただくことだろうか。ちょいと歯が浮いてくるような感じだ。
イエスは言う。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ」。なるほどとも思うが、当たり前過ぎることではある。
将来の蓄えを全て吐き出して貧しい人のために生きられる人は、まあまあいる。そういう人は神の国に入れるのだろうか。私にはよく分からない。分かっていることは「私にはできない」ということだ。私は悲しみながら立ち去るべきだろうか。私は天に宝を積めそうにないが、同時に悲しみながら立ち去ることもできない。
「人にはできないが、神にはできる」とイエスは言われた。もちろん、それで私の将来が保証されるわけではない。さらに、イエスは「神には何でもできるからだ」と言われる。結局のところ、私はどうなるのだろうか。答えはまさに神のみぞ知るである。
天にお金は積めない。さりとて、何をどのように積めばよいのかも分からない。それが人間である。それが答えだ。そこに気付かないと、「私は今、そして将来、何をすべきか」と問い続ける迷路に入ってしまう。私にはどうしようもないのだ。それこそ神がお決めになることだから。
「神はサイコロを振らない」と、あのアルベルト・アインシュタイン博士はおっしゃったそうだが、神が振るサイコロの目を確かめ続けている、それがキリスト教徒の醍醐味(だいごみ)なのではないだろうか。そう、神は何でもできるのだから。(終わり)
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