ユダヤ人が神を礼拝する安息日に、イエスの弟子たちが畑に入って麦の穂を摘み、手で揉んで食べ始めました。パリサイ人と律法学者は、労働してはいけない安息日に律法違反の行為をしたと責めましたが、イエスは、律法は、神が人を裁くためではなく神の御旨を伝えるためにあり、私たちが弱っている時に神は愛を注いで下さる方だと答えられました。
また、別の安息日に、会堂でイエスの周りに多くの人が集まり、そこに右手の萎えた人がいました。パリサイ人と律法学者は、イエスを訴える口実を得るため、イエスがその人を癒やすかどうか見ていました。なぜなら、安息日に医者の労働に当たる行為をすれば、律法違反になるからです。イエスは、彼らの考えをよく知っておられましたが、その人を癒やされたのです。この聖日、私たちの思い込みではなく、神からの祝福をいただきましょう。
1.礼拝で、神の喜ぶ善を行う
イエスは、律法主義者の魂胆を見抜き、その人を皆の真ん中に立たせ、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。命を救うことなのか、それとも失うことなのか」と人々に問い掛けられました。当たり前のことですが、私たちは、命を救うことや善を行いたいのです。それは、神の喜ばれることだからです。私たちにとって、安息日とは日曜日、クリスチャンたちが週の最初の日に神を礼拝するため休み始めた日です。礼拝こそ、神の御旨に適う善と人々の命に対する救いが実現される場なのです。
2.礼拝で、神の喜ぶ癒やしをいただく
イエスは、「右手を伸ばしなさい」と彼に命じられました。彼は言われた通り、全く動かないまま抱え込んでいた手を伸ばした瞬間、彼の手に神の癒やしの力が注がれ、萎えていた手が完全に癒やされたのでした。
神が喜ばれる善の中で最も明確なのは、癒やしの御業です。あなたの恵みのリストの中で、神によってあなたが癒やされることを決して後回しにしないで下さい。わずか三年間の公生涯の中で、イエスがなされた一番顕著な御業は、癒やしの御業です。私たちは、選りすぐりの善の御業である癒やしを、感謝をもっていただきたいのです。
3.癒やしの御業の主催者イエス・キリスト
イエスの行動は、律法違反だと屁理屈を言うパリサイ人や律法学者の考えとは全く違っていました。なぜでしょうか。イエスは、「人の子は、安息日の主です」と言われました。人の子とは、イエスご自身のことです。安息日で礼拝されるべきお方は、まことの神とその現れである御子イエスご自身なのです。ですから、安息日の律法の取り決めにイエスが縛られる必要はありません。安息日の主であるイエスの御旨が、律法の規定を乗り越えて行われても何もおかしくないのです。あなたが癒やされることを、イエスご自身が望んでおられます。イエスの時代から二千年の月日が流れていますが、礼拝で、イエスの癒やしの力をいただきましょう。
万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。