今日の聖書は、良きサマリヤ人の物語です。イエスを試そうと、ある律法学者が、「何をすれば、永遠の命を受けることができますか」と問い掛けてきたことに始まります。イエスは彼の心を見抜き、律法には何と書いてあるかと逆に質問されます。彼は、「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。』また、『あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」とすらすら答えます。それに対しイエスは、その通りでそれを実行せよと言われますが、清い生活をしていると自負している彼はカチンときて、「私の隣り人とは、だれのことですか」とさらに問い掛けます。そこでイエスが語られたのが、良きサマリヤ人のたとえでした。
「ある人が、強盗に襲われた。なぐりつけられ、衣服をはぎ取られ、半死半生で道端に捨て置かれた。たまたま、神殿に仕える祭司が通りかかり、彼を見たが、道の反対側を通り過ぎて行った。次に、礼拝の儀式に関わるレビ人が通りかかり彼を見たが、同様に反対側を通り過ぎて行った。しかし、倒れているユダヤ人とは敵対関係にあるはずのサマリヤ人は、消毒をして包帯を巻き、家畜に乗せて宿屋に運び、一晩看病した。その上、翌朝旅立つ時に宿屋の主人にお金を渡し、『介抱してあげて下さい。不足があれば、私が帰りに払います。』と言った。」
イエスは、「三人の中で、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思いますか」と尋ねます。律法学者は、「助けてあげた人です」と答えます。イエスはここでも言われます。「あなたも行って同じようにしなさい」。
1.正しい生き方は、選び取るべきもの
祭司とレビ人は何かの用事で急いでいて、助ける暇がないから通り過ぎたのかも知れません。それぞれに正当な理由があったのでしょう。でも、結局は助けませんでした。一方、他民族と混血し、ユダヤ人から軽蔑されていたサマリヤ人は、考えるまでもなく倒れた人を必死で介抱したのです。
イエスは律法学者に、誰が傷付いた人の隣り人になったと思いますかと問われました。いつも親しく儀式を行っていた祭司やレビ人でしょうか。それとも、決して会話をしたこともないサマリヤ人でしょうか。「今日は都合が悪い」「いつかそのうちに」「次回はやりましょう」ではなく、イエスは私たちの心の中に問い掛けられ、正しい生き方をちゃんと選び取らなければいけないと言われています。どちらが神に喜ばれるのか、その場で選び取る勇気や決断が必要なのです。いつもイエスがそばにいて、「どれがいいと思うか」と問われている感覚を思い起こし、正しい生き方を選び取る者でありたいのです。
2.正しい生き方は、実行すべきもの
私たちの心の中に正しい考えがある時、大切なことはその次です。その正しいことを私たちは行いたいのです。
世の中には、クレームを付ける人が溢れていますが、そんな社会はいつかダメになります。理屈や考えや論理ばかりでは、現実は動きませんから。考えただけで終わらせないで、事を起こす人が必要です。このたとえ話を読んで、良きサマリヤ人のした決断を自分のものにしたいのです。
イエスご自身は、良きサマリヤ人以上のことをして下さいました。薬代や宿屋の料金を支払われるどころではなく、イエス自らが、罪の力に翻弄される私たちの命を背負い、ご自分の命をささげて下さいました。その救い主がいつも私たちとともにいて下さり、「あなたも行って同じようにしなさい」と私たちに語りかけて下さることを喜びをもって受け止め、行動に移したいのです。
万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。