生駒聖書学院院長、榮義之牧師のコラムを連載します。このコラムでは、98年に出版された榮師の自叙伝『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)を紹介していきます。35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開する同師が、高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの自身の信仰の歩みを振り返ります。
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「熱血教師」
私が院長を務める神学校、生駒聖書学院には、伝道キャンペーンというプログラムがある。ある地域で数日間、神学生たち全員が総出で集中的な伝道活動をするのである。一九九四年には、宮崎県都城市の教会で三日間の特別集会が行なわれた。
都城市から一時間ほど走ると、鹿児島県国分市に着く。そこには中学時代の担任だった東亮吉先生が住んでおられる。もう三十七年も会っていなかった。近くまで来たので思い切って訪ねてみると、先生は中学卒業以来の再会を喜んでくれた。ちょうど『トッピーのくる島』という本を執筆中だった。
先生は中学の音楽と体育担当の熱血教師だった。四十年あまり前、ある中学で卒業式を控えたコーラスの発表会が開かれていた時のことである。「流浪の民」の歌声が、講堂いっぱいに響きわたっていた。ところがまだ歌い終えないのに、心ない PTAの父兄が、後に続く宴席の用意を始めた。先生は、部員たちに歌うのをやめさせ、全員で静かに外へ出た。しかしその行為は、来賓の教育委員長を激怒させた。教育委員長は「校長、こういう理屈の分からん男は島流しだ」と腹立たしそうに言うなり、出ていった。
せっかく生徒たちが練習し、会場にいる皆が聞き入っていたのに、教育委員長歓迎の宴席が台なしにしたのだ。それなのに、そのことにさえ気づかず立腹するのは何ごとかと、正義感の強い先生は怒りさえ感じた。
三月の異動時期になり、東先生は校長室に最後に呼ばれた。種子島の中種町浜津脇にある星原中学に行くようにとのこと。島流しは覚悟していたが、種子島と聞いてがっくりきた。教育委員長の逆鱗に触れるまでは、鹿児島市内の名門中学に転勤が内定していたのだ。「どうせ日本中どこにでも子どもがいる。そこに教育がある。子どもを教えに行くのではなく、育てに行くのだ」と自分に言い聞かせたが、権威や権力をかさに着た者のエゴに、新たな憤りを覚えた。
種子島の浜津脇は東シナ海に面し、声は大きいが人情は細やかな漁村である。星原中学は島でももっとも小さく、ピアノもないような小さな学校だった。体育と音楽の指導では県内でも名の知れた東亮吉先生の赴任は、驚きをもって人々に迎えられた。柔道と剣道で鍛えられたがっしりとした身体、鋭い眼光のひとにらみは、悪ガキを震え上がらせるに十分だった。その一方でピアノの前に座れば、あの身体のどこから出てくるかと思うような、美しい調べが流れ出す。そのコントラストは、少年少女の目を見張らせるのに十二分だった。
いつしか島の人情と少年たちの純情に、先生の心はいやされていった。そして再び教育者としての情熱がわき上がり、その理想は眼前にそびえる屋久島の頂よりも高く輝くのだった。
(C)マルコーシュ・パブリケーション