ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会、峯野龍弘主管牧師のコラム5回目です。
◇お互いを悩ますものに「負の執着心」というものがある。
そもそも人生には、さまざまな悩ましい出来事が去来する。しかしどんな悩ましい出来事にも優ってお互いを悩ましているものは、実はお互い自身の内側に潜む「負の執着心」である。この「負の執着心」ほど悩ましいものはない。しかもその悩ましさは、それが悩ましいとは思わないほど、お互いの心を深く侵食し、そこに巣食い、お互いを支配してしまっているところにある。
ちなみにこの悩ましき「負の執着心」に対して「正の執着心」というものがある。この「正の執着心」は、お互いを励まし強め、更にいかなる困難や苦しみをも甘受させ、堅き忍耐を持って物事を良き結果に導いて行く。たとえば良きことを計画したとする。しかし、それを実現して行く途上でさまざまな困難に直面し、悲しくも断念せざるを得なかった。ところがどうしても当初の夢と計画が忘れられず、寝ても覚めてもその執着が後を絶たず、遂に再び着手して見事にそれを実現させた。この場合の執着心を「正の執着心」と言う。
では「負の執着心」とは何か。それはお互いの人生を依然としてあるべからざるところに引き止め続け、更にはマイナス方向に引きずり込んで行く悪しき執着心のことである。お互いキリスト者は、聖霊に満たされ聖められることにより、この「負の執着心」から解放されない限り、いつまで経っても平安と自由と喜びに満ち溢れた勝利の信仰生涯を全うすることは出来ない。いかに能力があり知識に富んでいても、また主イエスから直付けに教えを学んだ弟子たちであってさえ、もしもキリストの十字架の死と復活を通して実現された全き贖いと、更にまたペンテコステにおいて実現された聖霊の盈満と聖めに与らない限り、誰一人としてこの「負の執着心」より解放されることは出来ないのである。ちなみに十字架による全き贖いと聖霊の傾注と満たしの恩寵に与っていなかった主の直弟子たちは、哀れにも依然として主の御受難が差し迫っていた時においてすら「負の執着心」に支配されていた。たとえば弟子たちは誰が一番偉いのか(マタイ18・1)、どんな報酬を受けられるのか(同19・27)、誰が上座に座るのか(同20・21)等の「負の執着心」に強く支配されていた。しかもその真意さえ少しも理解していなかった。おお、いかにお互い人間にとって「負の執着心」の手ごわいことよ。そこで目覚め、何としても聖霊に満たされようではないか!
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<峯野龍弘牧師プロフィール>
淀橋教会にて牧会の傍ら、94年ビリー・グラハム東京国際大会実行委員長、日本メディア伝道協議会会長、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁、東京大聖書展実務委員長等を歴任。 今年5月には、米アズベリー神学校から名誉神学博士号を授与された。
現在、JEA理事長、ウェスレアン・ホーリネス教団委員長、日本ケズィック・コンベンション中央委員長などを務める。国内、海外のキリスト教界のみならず一般社会でも広く講演活動に従事している。