欧米を中心に約500万人が参加するインターネット上の仮想世界ゲーム「セカンドライフ」が最近テレビや新聞で取り上げられ、日本でも大きな注目を集めている。同ゲームでは、「アバター」と呼ばれる分身キャラクターを3次元(3D)の世界で歩かせて、チャットを通して会話を楽しんだり、仮想通貨で買い物を楽しむなど、実際の人間生活をバーチャルの世界で体験することが出来る。街には商店やショップ、飲食店、ディスコやカジノまである。そして、先日われわれは、このインターネット上の街に「仮想教会」が設置され、そこで人々が真剣に礼拝を捧げている実態について報道した。技術の進歩とともに「インターネット宣教」が多角化しつつある今、もう一度初代教会のあり方を振り返り、教会と宣教の本質について見直す必要がある。
ところで、仮想教会で捧げられている礼拝とは一体どのようなものなのだろうか。「セカンドライフ」の世界に存在する仮想店舗では動画を放映したり、音楽を流すことができる。この仕組みを利用し、仮想教会では実際の牧師が語ったメッセージをポッドキャスティングで流したり、礼拝の動画放送を行っているという。現実世界と同じように礼拝の曜日と時間も決められており、「リンデンドル(LD)」という仮想通貨を利用して献金も集めることができる。リンデンドルは後に米ドルに交換することが可能だ。
確かに、いま欧米諸国の教会では礼拝のインターネット放送が広く普及しており、時間がなくて教会に通うことが出来ない者、教会に遠い地域に住む者などがよく利用しているという。高速・大容量インターネットサービスの導入によって音声・動画の配信が以前よりも容易になったいま、インターネットを宣教の道具として用いる教会が多くなっている。それに伴い、教会の在り方が多様化している実情がある。
そもそも教会とはどのような場であるべきところなのか。そこは神を礼拝する神聖な場であり、御言葉が語られ、祈りが捧げられるところだ。また、教会は神の愛する兄弟姉妹たちが交わりをする場であり、奉仕をする場である。インターネットを介した礼拝では、この教会本来の機能が失われることにならないだろうか。
もちろん、インターネットが宣教の現場に導入されたことで神のみことばと聖霊の御わざは全世界に広がるようになった。人類が生み出したこの道具はまさに神からのプレゼントだろう。
しかし、ここで一つ警告しなければならない。つまり、インターネットはあくまで宣教の道具として用いられるべきであるということだ。
インターネットを使用すると、礼拝、賛美、献金、聖書の勉強、交わりなど、教会で行っているあらゆることを自宅にいたまま体験することが可能になる。大いにけっこうなことだと思うかもしれない。けれども、「救い」とは聖霊の臨在があってこそ体験できるものだ。そして、聖霊は神の教会に存在するものであると聖書は語っている。
一方、聖書にはわれわれ自身が神の神殿であり、神の御霊が宿っているとも語っている(コリント3:16)。確かに正しいことだが、救いの体験は皆が一つになって祈り、聖霊がその場に降臨しなければ実感できないものだ。使徒2章に記録されている初代教会の始まりの時を思い出してほしい。使徒たちと人々が一つの所に集まり、祈っていると、突然聖霊に満たされたとある。「救い」とは決してひとりで体験することが出来ないものであり、またひとりで体験すべきものでもない。恵みと喜びを分かち合ってこそ初めて「救われる」のである。
仮想教会で礼拝を捧げているある人は、「仮想教会とは一つの宣教の場であって、実際の教会の代用になるものではない」と語っている。バーチャルの教会で動画放送を通して御言葉を宣布し、そこに集まった人々がチャットを通してメッセージの恵みを分かち合ったり、教会の情報を交換したりする。そうすることで人々を実際の教会に導くことが仮想教会の設立の目的だという。これならば、仮想教会はインターネットを宣教の道具として用いている良い例となりうる。
いまは「ポストモダン」の時代と呼ばれていると聞く。先日来日したジェームス・フーストン師は、この時代の問題点として、技術主義と機械的思考体系の蔓延を挙げた。同師はインターネットの普及により人々の会話が失われ、コミュニケーションが不足するようになったと指摘している。さらに、教会の牧会現場において機械的論理体系とインターネットなどの近代技術が導入されている現状を危惧した。しかしフーストン師は、「技術」を廃棄しようとするのではなく、神の愛を宣べ伝えるためにそれをどのように用いたらよいかを考えるべきだと主張した。
フーストン師が語られたように、価値観が多様化し教会の本来あるべき姿が失われやすいこのポストモダン時代において、われわれはもう一度教会本来のあり方に目を向けるべきだ。つまり、井戸を掘りなおして初代教会の在り方をもう一度振り返ることが必要だ。また一方では、新しい井戸を探して「掘ってみる」必要があるだろう。インターネットという画期的な道具を宣教にどのように用いるか、これがキリスト教界の今後の課題になってくる。