「私は誰か?」――グレース・キム氏が会場に集まった約100人の参加者を前に、「自分自身に問いかけてください」と語った。
グローバル・ハーベスト・センター・チャーチ(米ロサンゼルス)のデビット、グレース・キム牧師夫妻が、東京第一キリスト教会で3日から4日間開催された春の聖会で講演した。テーマは「聖霊の剣を高く上げ、霊的戦いを勝利でかざろう」。講演でグレース・キム師は、「神の働き人として聖霊の臨在と選ばれた器への油注ぎを受けて、日本を聖霊の火で満たそう」と全会衆に訴えた。
「自分が何者であるのか」――信仰の中心となるこの疑問に、ほとんどの人は自分の名前や家族との関係を話し、また多くの人が、職業、教会での肩書き、経済力など表面的なものによって判断し、自分の価値観で答えようとする。
グレース師は、「私は神の子、油注がれた民、神の目的と計画の中にいる者です」と答え、「『私たちは神さまの子』この身分は踏みにじられても、無視されても変わらず、その確信によって大胆に神さまへ祈り求めることが出来る」と神との永遠不変のつながりを力強く証しした。
グレース師は、「しかし多くのクリスチャンがその身分を知ってはいるものの、神の子としての身分に相応しい行動をしない」と訴え、程度の差はあるが、ほとんどの人が共通して、恐れや劣等感、他人と比較して自分を無価値に考える姿があると警告した。
特に「遠慮は謙遜ではない」ことを強調し、謙遜のように一見思われる「足りない者ですから」という言葉は、失敗への恐れからくる弱さでしかなく、そこには自分を隠して良く見せようとする傲慢さがあると指摘した。
本当の謙遜は、弱い自分であることを知ったうえで神の働きを信じて「やってみます」「できるように祈ってください」「困難を乗り越えられるように助けてください」といった具体的なアクションを起こすところから始まるものだとし、グレース師は、「神は『はい』という返事を求めている」と語った。
さらに、神の御言葉に従順する大切さを伝えるためにヨナ書を引用。ニネベの人々を裁くことは神の御心であったが、悔い改めの姿を見せたニネベの人々を赦すことこそ神の願いであったと伝え、「ヨナのように自己の主張をかたくなにつかみつづける姿を捨て去り、死をいのちとし、無にすることで復活とする神の救いに従順することが自身の救いにつながる」と説いた。
グレース師は、イスラエルの民が神さまから命じられた「聖絶しなさい」という言葉は、「自分自身の思い、自己中心的な判断を完全に聖絶し、神のこころと一致した世界に来なさい」という天からの救いへの招きがこめられていると説き、「『私は神さまの子である』という御言葉に忠実であるように」と伝えた。