米カリフォルニアバプテスト大学クリスチャンミニストリーズ副学長のクリストファー・モルガン氏は、ビンラディン容疑者の殺害とそれに対する反応について、米クリスチャンポスト(CP)のインタビューに応じた。
モルガン氏は自身のブログに「ビンラディン容疑者の死による嘆きと喜び」というタイトルで記事を掲載し、その中でビンラディン容疑者の死に対する反応と、神様の罪人と地獄に対する見方の違いについて対比している。1日夜米政府は「正義がなされた」と発表し、米国民はニューヨーク市、ワシントンD.C.など各地でビンラディン容疑者殺害を祝福した。
モルガン氏は「(ビンラディン容疑者殺害の)テレビの報道を見ていて、多くの聖句が私の頭を巡りました。イエスキリストの教えのすべては、敵のために祈り、愛することであるという御言葉から、ヤコブ書の神の民を抑圧する者たちが正しい人を罪に定めて、殺しました(ヤコブ5章)と書かれてある個所まで、様々な個所が心に浮かびました。私の中で過去に何度も生じたような内なる心の高まりがありました。それは地獄の聖書的教義についてです。地獄というものは、聖書では悲劇の結果であり、勝利の結果生じるものであり、その二面性をもって記述されています」と述べた。
神様の正義観と、オバマ政権によるビンラディン容疑者殺害の決断について、モルガン氏の見解を聞いた。
CP:モルガン氏のブログ「ビンラディン容疑者の死による嘆きと喜び」では、神様の摂理について、神様は悪者を裁くことに喜びを見出さず、罪を裁くことに勝利を見出すお方であると書かれておられますが、ビンラディン容疑者殺害とどのように関連付けて解釈したらよいでしょうか?
モルガン氏:警察官は殺人者を殺害することに喜びを見出したりはしないでしょう。しかしある状況下においては加害者を殺害することがやむを得ず、それが義とされるためにそのような行動を取るのです。これはしかし部分的な義を表したとしかいえません。そして部分的にでも義を表すことで、被害者の気分が良くなる原因を作り出します。
CP:ビンラディン容疑者の死は「部分的な義」をどのように表したといえるでしょうか?
モルガン氏:死後のさばきと天の御国の視点で言えば、人道による正義というのは、如何なる正義もある程度部分的なものであるにすぎません。私たちは誰も完全ではありません。私たちは天国の義ではなく地上の義を表そうと奮闘しています。神様のみが天国の義を行う特権と知識を持っておられるお方です。しかし各国政府は神様によってそれぞれの国で義と平和を促進し、秩序をつけるためにもたらされました。ローマ書13章1節から7節を読めば、そのことは明らかです。そして各国政府はそのようなことを促進するために武力を用いる権威が与えられています。もちろんこの様な武力行使を行う際は、十分事前に吟味されるべきです。赤信号を無視して渡る歩行者を射殺するのは、明らかに間違っています。しかしテロリストひとりを射殺すること、とりわけビンラディン容疑者のような、同時多発テロを首謀したと告白する人間に対しては、射殺することは政府としてふさわしいとされるのでしょう。
CP:正義の行いが達成されたとき、喜びをもたらしますが、そのことに過剰に国民が反応してしまうことはないでしょうか。モルガン氏のブログでは「わたしは悪ものの死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか―(エゼキエル18・23)」が引用されています。
モルガン氏:ビンラディン容疑者の死が発表されて一時間もしないうちにブログの文章を書き上げました。その中でのコメントは、政府発表後一時間以内に生じた通りでのお祭り騒ぎについて言及しています。その時、私はそのお祭り騒ぎの中で見られる笑顔・安堵感・喜びの一部は本当のものあり、正しい感情表現であるかのように感じられました。
もちろん、民衆は過剰に騒ぎすぎており、一部の人々は確かに異常なほどでした。私はキリスト者としてはいかなる人間の死に対しても、哀悼の意を表現しなければならないと感じております。ビンラディン容疑者の死でさえも、政府による「部分的な義」を表したにすぎません。そして部分的な義を公表するということは、国民の気分を高めることを自然に導くことができるので、その点で良いことであるとはいえるでしょう。
CP:クリスチャン有名人の一部は、ビンラディン容疑者の死を喜ぶことを非難しており、「殺害を喜ぶことは、同容疑者のまねをしているに等しい」と言っています。このように言うキリスト者は神様のどのような義に対する見方を反映していると思われますか?
モルガン氏:クリスチャンは人は皆救われなければ罪人で、地獄に行くしかないような存在であるにすぎないと信じています。私たちはだからこそ神様の恵みを離れては罪の道を歩むしかないことを謙遜に自覚しています。しかしそれは他者の大罪に対して敵対し、非難することを意味しているわけではありません。裁判官は判決を下して罪を確定しても、だからといって自分自身を誇ることはできません。ただそれが仕事だからやっているだけです。
殺人事件では、たとえば家族が殺害されたというような事件が生じれば、殺害者を罰するということが悲劇的な事情を回復するのに良い結果をもたらすためそのように行われますが、これが完全な義を遂行できたということを意味するわけではありません。今回の場合は大量殺人の首謀者が殺されたわけですから、テロリストを殺害するという行為が義と見なされ、国民が良い気分になること自体は、「道徳的な問題である」とまでは言えないでしょう。
CP:ビンラディン容疑者の死を義として喜ぶ人々の行動と、地獄が存在することについての疑いについて類似点というものはどこにあるでしょうか?
モルガン氏:これは複雑な質問です。一部分しか答えられませんが、類似点のひとつとしては、人々は双方において聖書的な愛よりもより感情的な愛に対する見解を抱いているといえるでしょう。聖書にある神の愛は、人間の人知を超えるものであり、神は善であり聖であり、すべての権能をお持ちであるお方です。しかし今日では多くの人々がそれを忘れていると思います。
イエスは敵を愛することが重要であると教えています。そして多くの聖句がこのことについて説明しています。しかし、個人的にもつ聖書的道義が政府の義と一致するものではありません。政府となると、罪を実際に裁かなければなりません。しかしキリスト者は自分で復讐せずに主に委ねます。このような政府の行いや復讐に関してはローマ書12章19節から13章7節に書かれてある通りです。ひとつの真理や原則に焦点を当てて、他のいくつもの原則がどのように関連しているか、明確にせずに持ちいるということはよくなされていることであると思います。
CP:「最後に勝つのは愛だ」というような、人々の心を惹きつけるフレーズを持ちいることは、神様の義に対するアプローチを学ぶことを助けることにつながると思いますか?
モルガン氏:「愛は勝つ」というようなフレーズは神学的に問題はないのですが、しばしば誤用されます。最終的にそのフレーズによってユニバーサリズム(万人救済論)、つまりビンラディン、ヒトラー、そしてサタンをも含むすべての人が救われるというような考えに導いてしまうこともあります。
教会はユニバーサリズムが非聖書的であり、欠陥のある思想であることを認識しています。イエスは地獄は地獄であると平坦に説明しています。永遠の裁きと追放・滅びがあるところです(マルコ9章42~48節、マタイ5章20節~30節、ルカ16章19~31節、Ⅱテサロニケ1章5~10節、ヘブル10章27~31節、ヤコブ4章12節、5章1~5節、Ⅱペテロ2章4~17節、ユダ13~23節、ヨハネの黙示録21章8節、22章15節)。
最後には神様はご自身で勝利されます。神の愛から離れた感情的な愛によって勝利されるのではありません。そして真実なる聖書的な神が勝利されることで、悪は打ち負かされます。そして義がなされ、善が記録され、神の民は救われ、悪者はさばかれ、神の栄光が示されるのです(黙示録20章~22章)。
CP:神様は罪を嘆き、妥協なしに罪人を裁かれるというこの二つの行いをどのようになすことができるのでしょうか。そして私たちもそのようなことを日常生活で行うことができるのでしょうか。
モルガン氏:この様な問題に関連する多様な重要課題があることを認識する必要があります。私たちも神に反対する人々の行動を嘆き、またキリスト教に改宗したことを喜び、また信仰を捨て去った人のために泣くことがあります。悪行のために裁かれた人のことを喜ぶということは良くあることでしょう。悪を正しく裁くことは良いことであり、正しいことですが、しかしそれでも死後のさばきという神様の視点からみれば、部分的な義を表明したにすぎません。私たちは部分的な愛や平和をみつめることで、普遍の義を忘れがちになります。たとえば世界のどこかで平和が成されていれば、それを祝いますが、その一方でそのような平和は不完全であり、部分的であることも知っています。
それであっても部分的でも平和な社会が成されていることを祝うのは良いことでしょう。部分的な平和は神様による宇宙的な和解の予兆として訪れるものです。地上での義が示されるのも、最終的な裁きが生じる前までにほんの一部の義が示されるにすぎません。人間的な見解での義と言うのは常に欠陥があり部分的なものです。