日本では「宗教」というと、海外でのテロや紛争のニュースとして見聞きする機会が多く、国内では、カルト宗教による事件の方が、通常の宗教トピックスより大きく取り上げられがちである。そのため宗教について「怖い」「危険」「インチキ」というイメージを持つ人が多いのではないかといわれている。その上で、「果たして本当に宗教は怖いのか?」、本物の信仰とカルトの違いとは何かを主題とした議論がなされた。
同イベントには、イラク取材中の2003年にイラク軍に拘束、2004年にイラク住民組織に拘束された経験をもつジャーナリストである安田純平氏、およびチベットを取材し、チベット仏教の熱い信仰の姿に心を打たれたフォトジャーナリスト野田雅也氏が出演、キリスト教サイドとしてはフォトジャーナリストの桃井和馬氏、カルト問題においては「やや日刊カルト新聞」主筆の藤倉善郎氏が出演し、イスラム教・仏教・キリスト教および無宗教それぞれの観点から信仰とカルトについて意見が交わされた。
今回のイベントの発起人でもある桃井氏は冒頭で「人間を越えた存在を信じないことに人間は簡単には耐えられない。人間を越えた領域があることによって人間は慎みをもってきたはずである」と述べた。環境問題に熱心に取り組んでいる桃井氏は「自然が残っているところは神々がきちんと残っているところであり、人間がふれてはいけないところがあることを自覚しているがゆえに残されてきた」と述べ、日本は宗教をなくしたのではなく「お金」という宗教を信じるようになってしまっているのではないかと指摘した。そのため日本人の人間に対する見方が、お金を良く稼ぐ人が偉い人でそうではない人は偉い人ではないというような偏見による価値観が広まってしまったのではないかと懸念を示した。仏教用語で「生老病死」というのがあるが、どのような人間でも生きること、老いること、病むことそして死ぬことから避けられない。これらの苦しみに直面するときに、どんな人にも襲ってくる恐怖がある。そのようなときに、宗教に親しみがない人は簡単にカルトにハマってしまい、友人関係や人間関係を崩してしまう、あるいはスピリチュアルにはまってしまう、と警告した。宗教の分派の問題についても一つの理論に固執した結果生じたものであるとし、宗教の分派を越えることが必要だと述べた。
野田氏はチベット仏教を取材し続け、「中国政府に弾圧され続ける状況にあってもチベット仏教の信者は『中国人と和解していかなければならない』 と忍耐をもってこらえ続けている精神がすごいと思った」と述べた。このようなところに「本物の宗教の力」があるのではないかという。その上で「そもそも宗教というのは純粋なものであるはずなのに、人間の利権にあおられてしまっているのではないか」と指摘した。
安田氏は自身のイラク滞在経験を基に、イスラム教について、「イスラム教徒が羊をさばくとき、神に感謝を捧げてから生き物の命を奪っている。いのちというものを直視することでその分からないから不気味であるところを宗教というものでフォローしているように感じる。一方日本ではいのちが奪われるというその行為、瞬間を差別する(見えないところに隠してしまう)ことで、どうにかそのような分からない不気味なものに接しないようにしているのではないか」と述べた。
安田氏は、イスラムの「聖戦(ジハード)」も本来はよりイスラム教徒らしくあるべきであるという考えに基づいたものであるが、それが人間の利権に絡んで利用されてしまっていると指摘。「イスラム教のスンニ派・シーア派も利権争いとなってしまっており、いかに相手と違うかを意識している。そしてそれに食いついて自分たちの活動を支援するならイスラム教徒であるが、しないならイスラム教徒ではないなどと人間が利己心により条件を後付けして純粋な宗教を利用している姿が見られる」とを指摘した。
桃井氏も宗教戦争というものについて、「もとは食料・水・資源を求めた土地争いであったものを、より周りの支援を得て優勢に戦うため、宗教というものを利用し、相手との民族性、宗教の違いを利用することで戦争に宗教的な意味を持たせるという後付け的な要素があった」ことを指摘した。ただの資源紛争であれば、まわりをひきこめないが、民族の違いや宗教の違いを後付けすれば、より高尚な意味を戦争に後付けしてまわりを引き込んで行うことができるという。
桃井氏は、キリスト教・仏教・イスラム教そして神道と世界には様々な宗教、そしてそれぞれの宗教の中にさらに分派が生じているが、これからの社会においてそれらの「違いだけを考える」のではなく「共通してあるもの」を見出していかなければならないと述べた。チベット仏教の最高指導者であるといわれているダライ・ラマ14世が中国政府からどのような弾圧を受けても非暴力でいる姿に関して「すべては関わりの中で生きている。敵だと思った人も自分たちの関わりの中で生きているため、敵を殺してしまうと自分もなくなってしまう」との説明に心を打たれたことを証した。その上で地球環境の破壊が深刻となっている現代において、「宗教というフォルダを上げて、人間というフォルダに入れていかないとこの地球上で生きていけなくなるくらい環境が破壊されている」と警告、「違いを目立たせて相手を非難する宗教はやめてほしい」と述べた。
異宗教間にある共通した信仰の姿について安田氏はイラクのイスラム教徒に「八百万の神」がある日本の神道を説明する際「絶対的な一つの神があるのと、無限の神が存在するのは究極的には一緒なのではないか」と説明したという。そのように話しているうちに、イスラム教徒からあなたもムスリムではないかと言われるようになったという。
野田氏は熱心なチベット仏教の信者と比べて見た場合の現代日本の仏教の在り方について、お経の唱え方や太鼓の響かせ方など外側の「技術」を磨きあげることや、いかに墓地を広げるかというような表面的なことだけに捉われ、仏教の本質となる「コアの部分を全く見ていないのではないか」との懸念を示した。桃井氏も仏教の本当の信仰の在り方について敬意を示し、「一番困っている人を自分の勘定を入れずに助けるという、そういう人たちを信じたい。しかし実際にはそのような本当の信仰の姿を持つ人々はメインストリームの仏教界から排除されているのではないか」と指摘、信仰についてそれぞれの宗教の信者の中で「1パーセントの無私の思いで信仰している人たちが人々を動かすのではないか」と述べた。
藤倉氏は特に信仰というものはもっておらず、特定の宗教に所属したことはないという。しかし2008年長野オリンピック聖火リレーの際に生じたチベット問題を機に、チベット仏教のすごく熱心な信仰の姿を見て、本当の信仰というものにも興味を持つようになり、「熱心な宗教」と「カルト」は違うものではないかと感じるようになったという。藤倉氏はカルトかそうでないかを見分けるポイントとして「社会との相対的な関係においてどれだけひどい摩擦を起こすか?」という点で判断し得るのではないかと指摘した。またカルトというのは「自由な社会での精神病である」とも言われるという。
藤倉氏はさらに「カルト批判」をしている側の問題点も指摘した。カルトを批判することで被害者を増やさないようにしたいという動機は正しいとしても、「批判の仕方が果たして正しいかどうか」が問題であり、「カルトであると批判すれば何でもOKというわけではない。(被害者を増やさないようにしたいという)目的が正しくても、手段が正しくなければそれは問題である」と指摘した。その上で統一教会がカルトであるとの批判が是とされるのは、「一回ミスしたからカルトというわけではない。統一教会は何十年にもわたってカルト行為を繰り返している。何か一言きついことを言ったから即カルトとなるわけではない。カルトであると糾弾することで世の中にどのような得があるのかを考えなければならない」と述べた。
藤倉氏は現代の日本に本当の信仰というものをもたらすにあたって「それぞれの宗教の歴史的経緯・源泉を辿っていくことよりも、現時点においてどういうメッセージで僕たちの心に入ってこようとしているのかが知りたい」と述べた。
それぞれの宗教に深い歴史的経緯があり、人間の欲望にからんで宗教が利用されてきたため、社会に誤解されてきにた経緯もあるが、信仰の本質という面ではイスラム教・仏教・キリスト教それぞれの中に「自分を無にして他者に仕える」という共通した姿が見いだせることがそれぞれの出演者の証しにより示された。藤倉氏は日本人は「無宗教」であるという視点から多くの既存の宗教を分析の対象として冷静に見つめることができると指摘した。しかしそのような一般的な日本人は、平時はそれでよいとしても、桃井氏が指摘したように「無宗教」であるがゆえに「死生観」というものが全く養われておらず、死に対する恐怖、無意識の偶像礼拝から抜け出す術を知らないまま人生の終末を迎えてしまう大いなる不安も抱えている状態であると言えるのではないだろうか。
無宗教の人たちが、カルトと熱心な信仰の違いを理解するには、理論や歴史的経緯の説明ではなく、行いとしての信仰の姿、そこに現れる真理や神様の働きをきちんと実感できるようにしていかなければならない。生活と宗教が密接につながっているところに他者は相手の信仰の姿を見出す。そのような人間の利己心にあおられていない、本物の信仰の姿に触れたいという出演者と聴衆らの思いが感じられた。
私たちクリスチャンが、ただ理論的にキリスト教について他者に説明できるだけではなく、本当にイエスキリストに現れる神を信じ、愛する「行いとしての信仰の姿」があるときに、初めてさまざまな利己心による利権ばかり追い求めるカルト宗教の情報に満ちた日本の社会にあって、ノンクリスチャンの人たちに「本物の信仰」というものを伝えられるのではないだろうか。
また、そもそも私たちクリスチャンがそのような「無私の奉仕」、「真実の愛」を世の人々に伝えることができるためには、私たちひとりひとりが自身の信仰を常に「聖書の御言葉」と祈りの原点に戻って確認し、祈りの中で神様の愛をふんだんに受ける必要がある。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。(ヤコブ4章8節)」―私たちがクリスチャンでありながら神から遠ざかり、罪を洗い清めず、偶像崇拝をする二心をもつ姿はないだろうか。今回のイベントから察知できたことは、信仰があると言われる人たちの中に、そのような汚れた思いがあるとき、無宗教の人々はそれを非常に敏感に察知するということであった。「本物の信仰」の姿には、宗教の枠組みを越えて共通する「自分を無にして他者に奉仕する愛」や、「ただ真実を求めようとする姿」が表されている。私たちクリスチャンが神に近づき、罪を洗い清め、心を清くすることで、キリストを通して表される神の栄光を世の人々に伝えられる真のクリスチャンとなることができるように願いたい。そのような真の信仰の姿をもつクリスチャンの存在が世の人々から切に待たれていることが伺えた。