峯野氏は、エフェソの信徒たちのために使徒パウロが神にささげた祈り(エフェソ3・14〜21)から、キリスト者が日々神の前にもつべき心と姿勢を説いた。
第1に、「内なる人を強めて(くださるように)」(16)との祈りに注目した。峯野氏は、「内なる人」とは「人間としての人格、品性」で、それが「強め」られるとは、迫害にも罪の誘惑にも屈しない信仰者の姿だと説いた。そのうえで「神が私に求めていらっしゃることを、どれだけ私が応答してきただろうか」と語り、「まず、主の前にひざまずくようにして、うちなるものをご点検いただき、うちが主の御心にかなうものとなるようにと祈ろうではありませんか」と力を込めた。
第2に、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(17)との祈りを強調し、「私たちもこのような祈りをもって日々主の前に伏し、祈りたい」と語った。峯野氏は、内住のキリストの恵みを説き、「私たちの心がキリストに満ち溢れるとき、十字架の主イエスの愛が満ち、愛に絶えず押し出されてキリストの愛に動機付けられて生きる。これこそケズィックのホーリネス」と力を込めた。
第3に、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し・・・神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(18〜19)との祈りを強調し、「私たちの限りない成熟を語っている」と説いた。峯野氏は、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・目標を目指してひたすら走ること」(フィリピ3・12〜16)との聖句を強調し、「これを思いとして絶えず進み続けましょう」と呼び掛けた。
最後に峯野氏は、「自分の力でやり遂げるのでない。どこまでも主のうちに円熟しようと仕える者に、神は恵みによってそのことをかなえてくださる」と聖化の恵みを説いた。