14日午前に行われた民主党元代表の小沢一郎氏の主宰する「政治塾」において、同氏がキリスト教について「キリスト教は一神教だ。欧州文明は地球規模のテーマを解明するには向いていない」と指摘したことが国内メディアで報じられた。17日には同氏を支持する民主党の衆院議員16人が民主党会派を離脱して新会派結成を行うとし、衆院事務局に新会派結成の届け出を提出した。政権を握る民主党は分裂の渦中にある。
日本ではキリスト教が真理ではなく、ひとつの「欧州文明による文化」の枠組みの中にある存在と見なされることが多い。キリスト教が、世界人類の魂を神につなげる「宇宙の心」ともいえる、あらゆる人間の精神基盤を支える真理であることが、日本の知識人たちの間でなかなか理解されず、ユダヤ人、パリサイ人がイエスの教えをなかなか受け入れられなかった2000年前の時代と似たような文化環境となっていることが示された発言の一例と言えるだろう。
言うまでもなく、これからの世界で成していくべき課題は「世界平和」の実現であり、それは何もキリスト教でなくとも、あらゆる宗教や政治団体がその必要性を主張している。一方、世の中にはあらゆるイデオロギー、価値観が存在しており、それらが共に生きる「共生」が必要であるとは、同氏の指摘する通りである。しかし世の人々の考える「共生」とキリスト者の歩む「十字架の生」とは、決定的に違うところがある。私たちキリスト者には「キリストにある自由」がある。その相違点により、キリスト者は様々な価値観や思想、そして21世紀インターネット社会特有の膨大な情報の中にあっても混とんに陥ることなく、主を通して「世の光」へと向かい、「永遠のいのち」に至ることができるのである。
パウロ使徒は、ガラテヤ人への手紙の中で、「かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。』こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。(ガラテヤ4・29〜31)」と述べている。
同氏は14日の「政治塾」の講演において「人類が永遠に平和で豊かに暮らしていくためには、国家像よりも人類としてのありようを共有しないといけないのではないか」と提唱しているが、まさに「人類としてのありよう」を創造主である神の御心に沿って語っているのが聖書であり、その伝道者であるのが私たちキリスト教徒である。
世の政治家とキリスト者の求めているものは共通しているにもかかわらず、偏見により受け入れられない関係となっているのがもどかしい。小沢氏の発言などから、世の人々がキリスト教について「一神教のイデオロギーに縛られた排他的な宗教」という偏見をもってしまっていることが伺えるが、その実は逆である。「御霊によって生まれた自由の女の子ども」として世の既存の価値観や一つの文化の枠組みに捉われない、主にある真の自由を手にしているのが私たちキリスト教徒である。
これからの日本は小沢氏の指摘する通り、一つの国の枠組みに捉われた「国家像」から抜け出し、「人類としてのありよう」を世界各国指導者らとその精神を共有し模索していかなければならない。そして、その「人類としてのありよう」とは、創造主である神の御心にかなった御霊によって歩む生き方(ガラテヤ5・16)のことである。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい(ガラテヤ5・13)」と書かれてあるように、御霊によって生きることで、肉の働く機会を避け、「愛をもって互いに仕え合う」ことを生きがいとして永遠のいのちのために生きることができる。この精神が個人の枠組みを超え、すべての国家に行き渡り、互いに愛をもって仕え合う精神を共有していくことが、主にあって願われている。
パウロ使徒はガラテヤの信徒に向かって「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、誰があなたがたを迷わせたのですか(ガラテヤ3・1)」と悲嘆を述べている。律法の世界では「目には目を、歯には歯を」が適用され、世界は報復の繰り返しとなる。「律法」の世界のままでは、互いに裁き合い、分裂し合うだけである。しかし、福音にある自由の世界に招き入れられた私たちは、主にあって「互いに重荷を負い合い、愛をもって互いに仕え合う」ことができる。私たちの信仰がガラテヤの信徒たちのように「律法」に逆戻りすることなく、主にある自由者として御霊によって生きる者にふさわしい愛の実践があるとき、世の人々がキリストにある者の真の自由を知り、その精神を初めて共有することができるのではないか。
エジプトでは、ムバラク大統領辞任後の混乱が深刻な状態となっている。女性記者が現地の暴徒に襲われるという、まるで旧約のイスラエルに王のない混沌とした時代であった士師記19章に書かれてある惨事を思い出させる事件が生じた。21世紀の現代においてこの様な事件が繰り返されることに、独裁政権から解放されたにもかかわらず、福音による自由のない混沌とした社会の凄惨さを感じざるを得ない。キリスト教迫害監視団体「オープン・ドアーズ」によると、エジプトはキリスト教を迫害する国ワースト50の中で第19位にランクインしている。
報復の連鎖を断ち切り、民主主義によってすべての国民のために互いの重荷を負い合い、仕え合う政治は、キリストの自由にある精神を共有することによって初めて実現される。「共生」の道を模索するために率先して重荷を負い、艱難の中に生きる人々を覚えて祈りたい。世界中すべての人たちに真の自由を提供できるキリストの御霊によって生きる私たちの生の証しが、今まさに求められている。―「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。(イザヤ60・1〜3)」―このような時代であるからこそ、混とんとする世に生きる人々と主の御心の「かけ橋」となり、「地の塩」として輝く私たちキリスト者でありたい。