神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
1.はじめに
日本人は昔から「わびさびの心」を持っております。それはひとことで言うと「人生はむなしい」ということです。私も日本人の1人として、わびさびの心情を持って生きてきました。それは、「人はだれでもいつかは死んでしまうのだ。死んで無になってしまうのだ」という思いから来るものです。
ですから、何をやっても心の底から絶えず湧き起こってくるような恒常的な感動や喜びや充実感がありませんでした。灰色の受験時代をようやく抜け出して大学に入って、「さあこれからバラ色の人生を歩むぞ!」と意気込むのもつかの間、すぐに毎日の授業にあきて落ち込んでしまいます。
砂をかむような法律を学んでやっと司法試験に合格して、「さあこれから弁護士として自由気ままに生きるぞ!」と希望に胸をふくらませても、数ヶ月たてば仕事や問題に縛られて身動きがとれなくなってしまいます。そしてまた再び「我慢と忍耐」の長い生活に入るのです。
「人生とは重い荷を背負って遠い山路を行くがごとし」と言った徳川家康の気持ちが良くわかります。しかし、重い荷を背負って山路を歩き続けたその最後のゴールが「死」であり、「無」であるとすれば、その労苦はなんと無駄なことかと言わざるを得ません。
2.人は死ねばゴミになる
元検事総長の伊藤栄樹氏は「人は死ねばゴミになる」という著書を遺してガンで亡くなりました。もう20数年前のことですが、この本はかなり長い期間ベストセラーになって多くの人々に読まれました。今でも文庫本になって継続出版されています。
伊藤氏は、造船疑獄事件やロッキード事件など戦後の大きな刑事事件を手掛け、身を挺して日本の社会正義のために貢献してきた優秀な検事でしたが、あまりの激務ゆえに検事総長になって間もなくガンに冒されて他界されました。
この本のテーマは、「世にあってどんなに貢労を積んでも、人は死んだ後には、肉体は灰になり、魂は消えてなくなってしまうのだ」ということです。
伊藤氏のように人生を真剣に生き抜いた人を含めた実に多くの人々が、同じようなはかなく、むなしい思いを抱いてこの世を去っていくのではないでしょうか。天下を統一し栄華を極めた豊臣秀吉も、「露と起き露と消えぬるわが身かな、なにわのことも夢のまた夢」という辞世の句を残して、むなしく世を去りました。
3.ビジネスマン自殺症候群
人生のむなしさを常に感じる日本人には昔から自殺者が多く出ていますが、バブル経済崩壊後はビジネスマンの間に自殺者が激増しています。ビジネスの成功を人生の最大の生き甲斐にしてきた人にとっては、そのビジネスが崩れたときに、他に支えるものが何もないのです。
私は弁護士としてこれまで、ビジネスに失敗して自殺未遂にまで落ち込んだ何人もの方々の相談を受けてきました。そこで、キリストを信じる者の1人として何かしなければいけないと思い、電車の車内広告として「聖書の御言葉」をそのまま載せることを計画しています。これによって、通勤中の皆さんに少しでも心の平安と魂の救いのチャンスが与えられるよう願っています。
4.本当の生きがいの発見
私たちの「むなしさ」はどこから来るのでしょうか。それは「死後の世界」「霊の世界」「永遠の世界」に対する正しい認識がないからです。天国や地獄はおとぎ話にすぎないと教えられて、考えてきたからです。しかし今や多くの臨死体験者の証言によって、現世を越える世界が存在することが明らかにされてきています。国民の3分の1がキリスト信者になろうとしている韓国では一度天国へ行って帰って来た人は、数多くいるそうです。
私たちが聖書をベースにした「死後の世界」「霊の世界」「永遠の世界」に対する正しい知識と明確なビジョンを持ってはじめて、この世に生きている(いや、生かされている)真の意味(価値)がわかってくるのです。本当の生きがいがわかってくるのです。
私たちの今日1日の生活は、明日には消えてしまうものではありません。私たちの一生の生活は、死んだら消えてしまうものではありません。神の国のコンピューターには、私たちの日々一刻一刻の思いと歩みのすべてが正確に記録されているのです。臨死体験者たちはみな、フラッシュ・バックを体験しています。これは「一瞬のうちにその人の全生涯の記憶が走馬燈のように想い出される」ということです。
ですから、今日という日に生きる意味があります。「今日という日は神の永遠の世界につながっている」のです。私たちが「今日の今というこの瞬間に何を思い何を行ったかには、永遠の重みがある」のです。言い換えれば、「今日という1日は、神の国においては千倍の千日分の意味がある」ということです。
聖書には、私たちが愛をもってした労苦は何一つ無駄になることはない(1コリント15:58)と書かれています。また、飢え渇いている者に水一杯でも飲ませるなら、その報いにもれることはない、と書かれています。神は私たちの一挙手一投足をすべて見ておられるのです。イエス・キリストを信じて神の永遠の世界に生きる命をいただいた者にとって、「今日の今、どこまで愛という純真な心で、神と交わり、人と交わり、自然と交わっているか」、ということが永遠に意味を持っているのです。
5.イエス・キリストを信じる―人生の最も重要なキーワード
私たちの人生の最も重要な「キーワード」は何でしょうか。キーワード(KEYWORD)とは「鍵となる言葉」です。それは、「イエス・キリストを信じる」ということです。「イエス・キリストを信じる」ということが、「天国の扉を開く鍵となる言葉」です。
聖書は旧約・新約合わせて66巻もある膨大なものです。一生かかってもこれを全部理解できる人は1人もいないでしょう。しかし、聖書という膨大な神の御言葉の中にキーワードがあります。このキーワードによって聖書という重い重い扉が開かれるのです。
それが今日の主題聖句であるヨハネの福音書3章16節です。
神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
この聖句のキーワードは要するに、神の御子なる「イエス・キリストを信じる」ということです。
「信」という言葉は、「人」と「言」が合体してできています。しかも「人」が従で「言」が主となっています。ですから、人と神の言が主従の関係で結ばれて一体となっていることが、「イエス・キリストを信じる」ということです。
イエスさまはこう言っています。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。(ヨハネ15:5)
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。(ヨハネ15:7)
「イエス・キリストを信じる」とは、ぶどうの木(キリスト)にぶどうの枝(人)がつながっているような関係を持つということです。そうすると、木(キリスト)から枝(人)に養分(神のいのち、恵み)がどんどん流れ込んで、ぶどうの実がたくさんみのるようになるのです。
それは、聖書の言葉(キリストの言葉・神の言葉)を、「道であり、真理であり、命である」として、子どものように素直に受け入れ、これを信じつづけることです。聖書の中心テーマである、キリストについての預言、キリストの誕生、キリストの生い立ち、キリストの教え、キリストの愛の御業、キリストの十字架の死、キリストの復活、キリストの昇天、キリストの臨在、キリストの内在、キリストの再臨などを事実として受け入れ、キリストについての諸々の啓示を真理として悟ることです。
ここで大切なことは、聖書の言葉を、単に頭(知性・マインドの次元)に受け入れるだけでなく、心(霊性・スピリットの次元)にまで深く受け入れることです。神の言葉を、単に頭で「うん、なるほどね」と理解するだけでなく、心の底から「ああ、確かにそうです!」と納得し、確信するのです。
そうすると、その人の内に一大変化が起きてきます。それは「キリストによって全く新しく生まれる」(2コリント5:17)という体験です。「聖書を学んだので以前に比べれば少しはましな人になった」という程度(次元)のことではありません。その程度のことなら、諸々の宗教に入ったり、偉大な人々の伝記や書物を読んだり、道徳や倫理を教えられることによって、いくらでもありうることです。「キリストによって全く新しく生まれる」とは、その人の内に新しく「霊なる人」が生まれるということです。これを「新生体験」と言います。そうすると、当然にその人の物事の見方、行動のあり方も全く新しくなっていくのです。
「なんだ、私はこれまで逆立ちをして手で歩いていたのではないか。だから、苦しかったのだ。無理をしてがんばらざるを得なかったのだ。いつも疲れていたのだ。何をしてもむなしかったのだ。だが、キリストを信じて、ようやくまともに足で歩けるようになった。足で歩くのは、なんと自然で自由なことか。なんと楽しいことか。なんと充実していることか」「これまでは何をしても老人のようにむなしかったが、今では何をしても子どものように楽しい」。 このように思える(悟る)ようになるのです。
これは、これまで自分中心に生きてきたのが、神中心に生きられるようになるということです。これはまさに、天動説(自己中心)から地動説(神中心)に転換(逆転)することです。進化論(万物は自然に進化してきている)から創造論(万物は神によって創造されている)に転換(逆転)することです。
「イエス・キリストを信じる」とは、要するに、その人の心に神であるキリストがお住まいになる(1コリント3:6)ということです。その人の内に、キリストによって新しい「霊なる人」「新しい人」「内なる人」(2コリント4:16)が生まれるということです。それはその人が、新しく生まれた「霊なる人」「新しい人」「内なる人」をとおして、キリストに結ばれてつながっているという状態(真理)です。その結果として、キリストの持っているすべてのものを共有して享受できるようになるということです。永遠の命はその最も重要な部分ですが、広い意味では、愛、喜び、平安、力、知恵、寛容、自制、健康、いやし、豊かな繁栄、安全などのあらゆる神のご性質と恵みが含まれます。
そうすると、
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れでるであろう。(ヨハネ7:38)
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ1:16)
神に満ちているすべてをもって、あなたがたが満たされる・・・・・・。(エペソ3:19)
ということを、私たちが現実に体験するようになるのです。
「イエス・キリストを信じる」ことによって、イエス・キリストの永遠の命、限りない愛、揺るがない平安、無尽蔵の豊かさ、誤りのない英知、完全な保護などによって満たされ囲まれてくるわけですから、この世の人生の「むなしさ」は、どこかに吹き飛んでしまうのです。きのうも今日もいつまでも永遠に変わることのない生ける神であるイエス・キリストご自身によって満たされるからです。この世に生きながら、この世を超越して生かされていることを体験できるからです。
この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。(ヘブル13:14)
わたしたちの国籍は天にある。(ピリピ3:20)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。