神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:3)
「前向きに生きる」ということを考えてみましょう。全ての生き物は後ろ向きでなく、前向きに生きるように造られています。イエス様も自分の前にどのような苦難が横たわっていても前に向かって生き、死を乗り越えて復活の生命のあることを示されました。
この世は後ろ向きに生きている世界です。父なる神が御子イエス様に対して「わたしはあなたをこの世界に遣わす」と言われた時、「父よ、それはできません。彼らは多くの預言者を退けました。彼らは恐らくわたしを信じません。行くだけ無駄です。辞退します」とは言われませんでした。むしろ、大きな期待をもって積極的に、たとい人々が後ろ向きで、受け入れず、十字架につけられることが手に取るように見えていてもです。
主イエスの弟子らは、主に相応しい人たちではありませんでした。主が十字架を前にしておられる中にあって、彼らは互いに背比べをし、「誰がこの中で一番偉いか」というつまらぬ話に花を咲かせていました。また、心を注ぎ出して祈らなくてはならない時、居眠りをしている有様でした。
これはまた、私どもの姿でもありはしませんか・・・?そのような状況の中にあってもイエス様は決してその前にある目的を見失うことなく、私どもの救いの完成を見ておられました。「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに辱めをものともせずに十字架を忍び、神のみ座の右に着座されました」(ヘブル12:2)とあります。
福音書の中に一回きり、イエス様が後ろを振り向かれた、という記事があるのですが、それは目的を見失い、前向きに生きることをやめたという意味ではありません。ペテロがイエス様を裏切って後ろ向きになり、どんどん後退して行く姿を見て、彼を励まし、前向きに生かそうとして後ろを振り向かれたのです。ですから私どもも、一度信仰(進行)という鋤に手をつけた以上、前向きに、全てを肯定的に生きて参りたいのです。イエス様は「誰でも手を鋤につけてから後ろを見る者は神の国に相応しくありません」(ルカ9:62)と言われました。
中国からきた話に「人間万事塞翁が馬」というのがあります。塞翁という老人が一頭の馬を持っていました。ある日、その馬が行方不明になってしまったのです。近所の人たちは気の毒がり、さぞ塞翁は落胆しているだろうと思って連れ立って見舞いにきました。ところが老人は「いや、悪いこともあれば良いこともあるさ」と言って、一向に平気なのです。その通り2、3日経って、その馬は帰ってきました。しかも、自分よりさらに良い馬を一頭連れてきたのです。村の人たちは老人の家にきて、めでたしめでたしと喜び合いました。しかし、老人は平気な顔なのです。そして、「いや、良いこともあれば悪いこともあるさ」と言うのでした。その後、老人の一人息子が馬に乗って遊びに行き、馬から落ちて大怪我をしてしまいました。村中の人たちがきて気の毒がり、見舞いをしました。その時も老人は相変わらず、「いや、悪いこともあれば良いこともあら〜な」と言うのみでした。ちょうどその時、その国に戦争が起こり、村の若者たちのもとに王様からの召集令状がきて、皆借り出されて行きました。しかし、その息子は怪我をしていただめに兵役を免れたというわけで、「怪我の功名」という諺が生まれたと言います。
この話は、信仰からきたものではありませんが、この世の中にはこのように物事を暗く見ないで、明るく楽天的に美しい夢を描きながら生きている人がいます。世の神を知らない人にしてそうだとすれば、神とキリストを知る私たちはなおさら、もっと前向きに明るく胸を膨らませ、夢と希望に生きるようにしたいではありませんか。
パウロはそういう生き方を身に着けた人でした。「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを私たちは知っている」(ローマ8:28)とあります。全ては神の知恵と愛と御計画の中にあります。この確信に立ち続けるなら、神は私たちをお見捨てにならないばかりか、素晴らしい業をさせ、喜びと感謝に満たして下さるのです。
ウォルト・ディズニーは常に未来に向かって楽しい夢を描き続けました。子どもたちに天国の喜びを味わわせてやりたいというので、ディズニーランドを作りました。日本にもディズニーランドがあり、私も一度だけ行き楽しみを味わわせていただきました。彼はそれをフロリダにもっと大きいディズニーワールドを作ろうとしたのですが、完成を見ることなくして天に召されました。完成の日、友人たちが集って言いました。「ああ、惜しいことをした。あいつもこの日を見て死にたかったろうに・・・」と。その時、一人の友人が言いました。「いや、彼は見たのさ。だからこそ、今日これが完成したんじゃないか」と。
私はよく東大総長であられた矢内原忠雄先生の書かれた聖書解説の本を用いて参りました。その本の中に「目的論的人生観」という一説がありました。それは、ヨハネ福音書9章に出てくる一人の盲人の話を通して説かれたものです。生まれながらの盲人を前にして、主イエスの弟子らは「彼が生まれつき盲人として生まれたのは誰の罪なのですか」と問うています。当時のユダヤにも因果応報、すなわち不幸の原因は誰かの罪の結果によると言われ、善因善果悪因悪果、良いことをすれば幸福が、悪いことをすれば不幸が・・・という考え方一辺倒で、人間の幸、不幸が論じられていたのです。
イエス様は、この盲人の目を奇跡をもって見えるようになさったのですが、そのことはまた別の機会に取り上げるとして、イエス様が弟子らに示された重要な人生論の一つがあるのです。矢内原先生は、それを「目的論的人生観」と呼んでおられるのです。この人生観を信仰をもって受け止める時、先に取り上げた「人間万事塞翁が馬」の話に通じるものがあると知るのです。塞翁さんの生き方はちょっと楽天的で、生まれつきノンキな性格と言ってしまえばそれまでですが、私どもはどのような困難不幸に見舞われても、全てを最善に仕上げて下さる主なる神いますとの信仰に立って、目的論的人生観を固持する姿勢を貫く者でありたいのです。
最後にヘレン・ケラーのことを短く話して終わります。ヘレン・ケラーは三重苦の不幸を身に負っていました。しかし、これによって素晴らしい未来を切り開き、世界の光となったのです。彼女は大変な読書家で、しかも聖書を一番よく読んだと証ししています。そのヘレンを教育したのはサリバン先生ですが、この人も後ろ向きに生きる人ではありませんでした。サリバン先生が前向きに生きる教育者でなかったとしたら、また、全てを良きになさる全能にして愛なる神への信仰がなかったなら、暗黒の世界に住む少女を偉大なヘレン・ケラーに仕上げることはできなかったでしょう。
前のものを目指して積極的に建設的に生きるということがいかに大切かを知らされるのです。「失ったものを数えておるな、残されたものを数えよ」と申した人のお名前は忘れて恐縮なのですが、素晴らしい人生観ではありませんか。パウロは言いました。「・・・ただこの一事に励んでいます。すなわち後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:13〜14)と。
暗い世です。未来は見えない、と人々は嘆いています。しかし、太陽がその光を失う時がきても、聖書は私たちに、永遠の希望の光は尽きることがないと約束しています。前向きに生きようではありませんか。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。