昭和5年5月19日に興ったホーリネスのリバイバルの真因に今回は焦点を絞ります。近年、日本でもリバイバルを切望して祈りが捧げられ、大集会が繰り返し行われてきました。歴史は繰り返すとよく言われますように、リバイバルが興った国や地域では、そのきっかけや諸要因が相似する傾向があるとはよく言われます。
旧ホーリネスを主宰した中田重治監督の指導の下では、いくつかの特色がありました。4月6日には東京の日比谷公会堂で開かれていたホーリネス大会で、東洋宣協会三十年記念大会が開かれて二千数百人が参加していました。その際、中田監督は「ホーリネス教会に対する悪評」という文章を壇上で読み上げました。曰く、1.他教会に対する攻撃をすること、2.教会員が低級であり、貧乏人の集会であること、3.やり口が劣等であり、余り極端過ぎること―、このように他教会から批判されていることを暴露しました。
しかし、裏を返せば、彼は福音とは単純明快なものであり、一般大衆に平易で単純な福音宣教を至上命令としていましたので、批判は逆に全く意に介していなかったのでした。ということは、リバイバル以前に、リバイバル的状況が往事のホーリネス教会には醸し出されていたと推測されます。次に、リバイバルの要因を列挙します。
1.神学校が鍵となった
1900年(明治33年)春に、神田神保町で開始された伝道館で、同時並行で聖書学校が開校しました。神学生を修養生と呼び、10名ほどの者が学舎で共同生活して訓練を受けました。この学校が発展して新宿柏木の東洋宣教会聖書学院(通称:柏木聖書学院)時代にリバイバルが興ります。
特色としては徹頭徹尾、福音主義に立って教鞭が執られたことが挙げられます。明治から日本の教会に流出してきた欧米のリベラル神学が猛威を振るい、日本の教会に影響を与えました。しかし、この神学校はシカゴのムーディ聖書学院で学んだ中田監督が提唱した「聖潔(きよめ)」の体験を学びと訓練の土台の一つに据えて、祈りと伝道、聖書66巻を100%神のことばと信ずる聖書信仰に立脚していました。
神学校の教師も、この流れの中で選別され、やがては卒業生が教鞭を執り、教授として後進の育成に当たりました。昭和5年の冒頭から聖書学院に悔い改めの聖霊による迫りと、修養生が示されて徹夜で祈り込みに入るというような独特の霊的雰囲気が支配し、外部の者が聖書学院内に立ち入るとその緊迫した霊的状態を感じ取れるほどであったといいます。
修養生の持ち物や、卒業後の奉仕に対する野心への示し、修養生間の男女間の聖別への迫りや健康、経済的不安への不信仰、同室の者に対する妬みや高ぶり、ありとあらゆる事柄が霊的な光に照らされて、修養生たちは祈りへと自発的に導かれていきました。きよい神の器として訓練する目的の神学校ですので、聖霊が特別に迫っていったのは当然かもしれません。
リバイバルの導火線は、まだ未熟な修養生の心の奥深くに働いて、祈りの霊が聖書学院を覆っていました。近年、アメリカのリバイバルは神学大学の学生たちが悔い改めて、祈りの霊が注がれていったことを見聞きします(ホイートン大学、バイオラ大学など)。
2.国際色豊かな教団であった
中田監督も、彼を取り巻き宣教への協力を惜しみなく捧げた人たちも、アメリカやイギリスといった国々に留学し、故国の人々への伝道の意欲に満ちた伝道者が結集していました。さらには、聖書学院へも当時の周辺諸国から、人種や国籍を問わずに多くの留学生を受け入れて、修養生として訓練しました。中には白系ロシア人も学んでいました。海外宣教団体の東洋宣教会(OMS)の事務所が聖書学院構内にあり、アメリカなどから多くの宣教師たちが常時滞在して日本宣教のために協力していました。
台湾やブラジル、中国、朝鮮半島やサハリン、北米などに卒業生をどんどんリバイバル前にも派遣して宣教しました。現在もそれぞれの派遣国において独立した日系教団として活動しています。当時の教団としては破格の海外のキリスト教会情報に溢れた教団でした。ですから、リバイバルの何たるかを深く理解していたことが分かります。
3.海外からのサポートを辞退した
教団として神田神保町に伝道館を立ち上げた時から、アメリカの宣教師を介した経済的な援助が続いていました。献金する側もされる側も当然のこととしていましたが、リバイバルの前年に中田監督は、自給自足の信仰を打ち出しました。当時は、牧師給料の多くを海外からのサポートに頼っていたこともあり、牧師たちにとってもサポート打ち切りは死活問題でした。
多くの教会土地建物が、特にアメリカの団体個人からの尊い献金によって与えられてきました。しかし、中田監督はこのまま教団として海外からサポートを受け続けていくことは本当の意味で自立した教会の形成の妨げになると判断して、多くの牧師たちの困難を十分理解しつつもこの方針を断行しました。その結果、牧師たちは真剣に経済の祝福を祈り出し、伝道にさらに心血を注ぎ始めました。
聖書学院卒業の先輩牧師たちの真剣な祈りと伝道の姿勢の変化は、当然修養生たちにも感化を与えました。彼らもまた、卒業後の自分たちの全ての必要を神に全面的により頼まなければ伝道者としてはやっていけないという聖霊による逼迫感に迫られて祈り始めました。私もこの一件が確実にリバイバルの引き金の一つになったことを、リバイバルの火を通った先輩牧師たちから随分聞かされました。
このサポート辞退は、昭和のホーリネス弾圧事件の検察レベルの厳しい過酷な取り調べで、敵国のスパイとして牧師がアメリカから報酬を得ているという嫌疑を晴らしました。海外送金授受の記録を検察が調査した際、立証する証拠がないという神の守りを後になって体験することになったのです。当時としては海外からの経済援助を絶って、全くの自給体制を教団と各個教会が敢行することは大変な冒険でした。
田中時雄(たなか・ときお):1953年、北海道に生まれる。基督聖協団聖書学院卒。現在、基督聖協団理事長、宮城聖書教会牧師。過疎地伝道に重荷を負い、南三陸一帯の農村・漁村伝道に励んでいる。イスラエル民族の救いを祈り続け、超教派の働きにも協力している。