神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(コロサイの信徒への手紙2章13節後半から14節)
かつて牧師の務めの傍ら、神学大学に聴講生として在籍し、約2年間、学部・大学院の神学生たちと学んだ時期があります。いずれ機会が得られたらキリスト教主義学校の聖書科教師として非常勤で勤めるのも良いなと思案した末の選択でした。残念ながら、未だに声はかかりません。やはり牧師人生の務めを一筋に全うするのが、私に用意された神さまの召しであることを再確認するこの頃です。
ところで、聖書科教職課程の学びに、ビデオ観賞の授業がありました。ビデオには、米国の大学で教育学を教える教授に、日本の親たちが質問する光景が録画してありました。一人の母親のインタビューに答えて、教授はこう話されました。「人間にとって優秀とは、他人から好かれる人のことです」。意外な回答でした。それ以来、私は自分なりに優秀の概念をめぐって考えをまとめることにしました。とても示唆に富んだ言葉であるように思われたからです。他人から好かれることが優秀だとすれば、それは具体的にどういうことなのか。とても興味深い関心事でした。
ある日、「優」という漢字の組み合わせに気がつきました。「優」という文字は、「人」と「憂」の合成語になります。人のことを憂えること、それが優しさに通じる心ではないだろうか。人に優しさをかけることのできる人こそ優秀な人と言えるのではないか。大抵の場合、人のことを憂えるどころか自分のことで精一杯なのが人間の姿です。人に優しさをかけることができるのは、それだけ優れていると言えるのでしょう。自分のことだけでなく他人のことにも思いが及ぶということは、弱い人間にはできないことです。人間の本質が自己中心である以上、優しさというものは自立した人間にして発揮し得る行為だと言えます。
もっとも、優しさという行為を世話好きと混同してはいけません。世話好きの類であれば、それは時として自己本位でしかない場合があります。しかし優しさという行為は、もっと根源的な係わり合いの中から生まれる行為ではないでしょうか。自分という主体を確立(自立)しながら、そこにとどまることなく他人への配慮に思いが及ぶということは、強い生き方であると言えるでしょう。弱い人の弱さを担うことのできる人こそ、真に優しさを備えた優れて強い人と言えます。自分のためにしてもらう生き方ではなく、人のためにしてあげる自律の人です。
イエスさまの「人としての一生」に真の優しさを見ます。イエスさまは十字架上の死を賭けて、神さまに離反して生きる私たちのことを憂い、御自分の一生を全うされたお方です。このイエスさまに倣って生きたく願います。これが神さまの無条件愛に生き、赦しの奇跡を分かち合うことに他なりません。それが真の優しさに通じる道です。父なる神さまは御子イエス・キリストさまを通して一切の罪を赦してくださいました。一切とは1つの例外もないということです。
ところで、「赦しはするけれど忘れはしない」という言葉があります。どちらにとっても辛いことです。「赦したいこと」と「赦されたいこと」はお互いに忘れたいことです。いつになっても「忘れはしないこと」が記録として残されているとすれば、いつも心の片隅に「癒やされない負い目」を引きずっているようなものです。
聖書は、「わたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し」と明記します。いつも気がかりになっている証拠が取り除かれたということです。ヘブライの信徒への手紙4章15節に、こう記されています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。神さまは、私たちが自身のことを知る以上に、私たち一人ひとりの悪さを御存知です。だからこそ、はばかることなく恵みの御座に近づこうではありませんか。
津波真勇(つは・しんゆう):1948年沖縄生まれ。西南学院大学神学部卒業後、沖縄での3年間の開拓伝道、東京での1年間の精神病院勤務を経て1981年7月、多摩ニュータウン・バプテスト教会に着任。現在に至る。著作に、「マイノリテイ(少数者)の神」(1985年)、「一海軍少将の風変わりな一生の思い出」(1990年)、「出会い」(齋籐久美・共著、1991年)、「讃美歌集・主よ来たりませ」(1993年)、「沖縄宣教の課題」(2000年)。作曲集CD「生命の始まり」(1998年)、「鳥の歌」(2003年)。