■ イエス様の視点に立ち返ろう
毎年衰退の一途をたどる教会の現状をこのまま良しとされる方は一人もおられないでしょう。日本のプロテスタント宣教151年目を迎え、これは日本の教会にとってますます切迫した課題となっています。
しかし我々キリスト者にとって、すべての問題の解決は神のみ言葉にあります。大きな危機の時代だからこそ、キリスト者としての真価が問われているのです。神のみ言葉にもう一度立ち返り、イエス様の視点にまでへりくだって日本の宣教を見つめ直すとき、人間の思いをはるかに超えた神の御心が我々のうちに迫ってくるのではないでしょうか。
■ イエス様の視点とは
日本人は非常に勤勉で真面目です。そして人を思いやる心に溢れたすばらしい国民です。しかし残念なことに、人間に最も必要であるイエス・キリストの福音がこの国の土壌にはありません。どれだけきれいごとを並べたところで、政治も近隣社会も、結局は営利主義と利己主義が先行する行動原理の枠から一歩も抜け出すことはできません。
イエス様の目線はいつも真っ先に、社会から見放された罪人や弱者へと向けられました。現代の日本にも、障がい者や囚人などを進んで助ける立派な方がおられることは確かです。しかし社会全体を見るとき、いわゆる社会的弱者に対する目線はあまりにも冷たく、たとえ政府が対策を講じたとしても、そのほとんどが後回しにされているのが現実です。
私も刑務所伝道の働きを始めて早6年になりますが、確かに目に見える実りは少ない働きです。しかし、イエス様の愛を体験した我々キリスト者までもが、世の営利主義や利己主義の先行する価値観に捕らわれ、その働きの手を緩めてもいいのでしょうか。キリスト者であるお互いは、イエス様ならどうされるだろうかをいつも心に留めて行動したいものです。
■ 兄弟を裁く言動がお互いの成長を止めている
新しいことに反対者はつきものです。その働きがより価値あるものであればあるほど、反対勢力もより大きなものとなるでしょう。しかし争いを恐れる我々日本のキリスト者には、他者と同じくあろうとする考えがあまりにも強すぎ、たとえ良いものであっても新しいことができないような、目に見えない壁が存在します。そればかりか、他者の良い面をほめずに批判し、自分と同じ枠にはめ込もうとする教会指導者のなんと多いことでしょう。それぞれに特別な使命を与えられて遣わされた神の僕であるお互いが、どうして兄弟を裁き、その働きを止めることができるのでしょうか。
兄弟が祝福され、神の栄光を世にあらわしてるそのときに、ともに喜ぶことができないのが人間です。しかし、イエス様の愛をそれぞれが特別に体験したお互いは、兄弟の祝福をともに喜び、同じく神の特別な祝福にあずかる生涯を歩み続けることができるのです。神が我々に願っておられるのは、互いを比べ合い、裁き合うことではありません。むしろ互いの違いを受け入れ合い、一つとなって神の祝福にともにあずかることなのです。
■ すでにリバイバルは来ている
私は、「OO年以内にリバイバルを」とは求めません。すでに我々のうちにリバイバルは来ているのです。我々の急務は、これから教会に押し寄せてくる多くの人々を導くリーダーを育てることです。そのためには、いま教会に集っている数少ないキリスト者はもちろん、様々な理由で今は教会に来ていない多くのキリスト者たちの信仰のリバイバルが不可欠なのです。
進藤龍也(しんどう・たつや):1970年埼玉県生まれ。18歳でヤクザにスカウトされ住吉会系の暴力団の組員に。組長代行となるが覚醒剤が原因で降格。3度目の服役中に差し入れの聖書を読み回心。出所後洗礼を受けJTJ神学校に入学し、卒業後開拓伝道を開始。現在、単立〔罪人の友〕主イエス・キリスト教会牧師、刑務所伝道ミニストリー代表、VIP川口ホープチャレンジ代表。著書に、「人はかならず、やり直せる」(中経出版)。