何年か前、主の復活を祝う日が近づきつつあったある日、テレビを通して一人の有名な作家が「キリストの復活は事実ではないが、真実がある」という意味のことを申しました。私はこのことに反応し「彼はなぜ聖書が事実として伝えているところを否定し、否定した事柄から真実だけを抽出しようとするのか」という疑問だけが残りました。
聖書は、主イエスが四十日にわたって度々弟子たちの前に復活の事実を示し「五百人以上の兄弟たちに同時に現われました」(1コリント15:6)と証言しているのです。
主イエスが四十日にわたって復活の姿を現わされた中での弟子たちに対する重要な命令の一つは「エルサレムを離れるな」ということでした。思い出すだけでも恐ろしく嫌なエルサレム。一刻も早く立ち去りたいのです。
しかし、その居心地の悪い場こそは、聖霊が臨んで全人類に唯一絶対の祝福をもたらす発祥の地ともなり得るのです。ペンテコステの日がきて約束の聖霊が彼らの上に注がれ、彼らは聖霊に満たされてイエスは主であると告白し、人々に悔い改めて福音を信じるようにと迫り、三千人の人々がその呼び掛けに応じ、彼らもまた復活の証人となって出て行く者とされたのです。
私どもが「イエスは主である」と信仰告白ができるのは、自分の知恵や意志というよりも、聖霊の御業によるものであり、その聖霊によって復活の証人として立てられたということです。
「証人」とは原語で「殉教者」という意味があると言われています。ステパノはその第一号であり、ペテロもパウロもこの福音の証人として命を懸けて宣教活動に努めたのです。使徒たちに続く教父たちも同じでした。イグナチウスは「私がキリストの聖いパンとなって死ぬことを妨げてはいけない」と書き残し、スミルナのポリカルポスは、「キリストを否定するなら寛大な処置を取る」と言われたのに対し、「自分は八十六年間、キリストのしもべとして生き、その間キリストは私に良いものばかりを下さった。そのキリストを悪し様に言うことはできない」と証言し、殉教者となったと言われています。
私どもも今置かれているところがどんなところであれ、祈りの中で聖霊の満たしを待ち望み、力強く福音の証人としてその生涯を全うしたいと願う者です。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。