主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
(コロサイの信徒への手紙3章13節)
「ヘリコプター思考」という言葉があります。ヘリコプターが着地しているときの地平の見通しは限られていますが、地上から上昇するにしたがって視野が広がってまいります。交通渋滞の路上で前後の車の運転者同士がイライラをぶつけ合っていたとします。空から見下ろしますと、交通渋滞の路上を横に折れたところで交通事故が発生していることが分かります。それが原因の渋滞でした。それが分かったとき、イライラをぶつけ合うまでもありませんでした。高いところから物事を洞察するようになると、ストレスのぶつけ合いも少しは緩和される筈です。日ごろから霊的な洞察力を高めるようにしたいものです。
N先生と初めてお会いしたときのことです。こう言われました。「牧師さんに向かって、こんな言い方は失礼かも知れませんが、教会の言い伝えをそのまま受け入れるのではなく、元に帰って、聖書はどう語っているのかを確かめることが大切ではないでしょうか」。それをきっかけにキリスト教界の既成事実を再考するようになりました。例えば主日礼拝の開始時刻のことになりますが、ほとんどの教会が礼拝開始時刻は、ほぼ同時刻なのです。そこに集うメンバーにとってどの時間帯に集まるかということは、もっと便宜的なものであってもよいのではなかろうか。どこかに「ねばならない」とする膠着的な姿勢はなかろうか。いつもの限られた時刻に礼拝を受けることができるのは限られた人たちであることを銘記したいものです。
ところで福音書におけるイエスさまは、極めて自由で柔軟な生き方をしておられます。例えば、律法の中でどの戒めが大事なのかを聞かれたとき、即座に神さまを愛し、隣り人を愛することを明らかにされました。伝統というものはいつの間にか教条主義的に守る事柄を自らに課してしまうものです。先だって久しぶりに日本のプロテスタント宣教150周年に続く集会に出席しました。主講師の牧師が祈りをされるかと思いきや、長々と聴衆を黙祷させ、アンケートのような問いかけをし始められました。日本のプロテスタント教会に受け継がれる伝統的な「特別伝道集会」の光景でした。いつ祈りをささげられるのやらアンケートの質問が終わるのを待ち続けました。もうそのような手法がまかり通る時代ではないように思われます。
超教派の集会になると大会に連なる諸教会の牧師たちが満遍なく奉仕を分担し合うのも如何なものでしょう。それだけでもかなりの時間を費やします。「賛美と御言葉の宣教」に集約される時間設定を配慮するのが得策ではなかろうか。「新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れよ」です。歴史というものは、時代の主流ではなく傍流に立ち位置を定めるとき、時代の本質がよく見えるようになるものです。いつの時代でもそうですが、教会は、「神さまの無条件愛と赦しの福音」の宣教を使命とします。コリントの街の教会が置かれた地域とその時代の影響を色濃く受けていたように、現代教会も置かれた歴史の場と時代の思想的な潮流の影響下にあります。ニュー・エイジの危険性が指摘されるようになって久しくなりますが、混沌とした時代だからこそ腰を据えて聖書に聞く姿勢を大切にしたく願うものです。
今、世の中は本当に病んでいます。確かな道しるべが求められています。「主があなたがたを赦してくださったように」という御言葉に赦しの奇跡を分かち合い、和解の福音を生きたく願う。多くの牧師や信徒の働き人が心理分析のカウンセラーのように振る舞う傾向を憂慮しております。ヨーハン・クリストフ・ブルームハルト牧師のようにイエス・キリストさまの赦しの光ですべての人を見る眼差しを大切にしたく願うものです。教会は教会であって病院ではないのです。共に礼拝者としてお互いを許し合い、受け入れたく願うものです。導かれるお一人ひとりは「今のままで良い!」のです。主があなたがたを赦してくださったように・・・。
津波真勇(つは・しんゆう):1948年沖縄生まれ。西南学院大学神学部卒業後、沖縄での3年間の開拓伝道、東京での1年間の精神病院勤務を経て1981年7月、多摩ニュータウン・バプテスト教会に着任。現在に至る。著作に、「マイノリテイ(少数者)の神」(1985年)、「一海軍少将の風変わりな一生の思い出」(1990年)、「出会い」(齋籐久美・共著、1991年)、「讃美歌集・主よ来たりませ」(1993年)、「沖縄宣教の課題」(2000年)。作曲集CD「生命の始まり」(1998年)、「鳥の歌」(2003年)。