18.人生の四大苦(4)死
それから、最後の「死」です。人間が一番恐れるもの、それは「死」です。しかし、イエスを信じる者にとっては、よく考えてみると、死の門の奥には「神の国」が燦然(さんぜん)と輝いて存在していることがわかります。死ぬ瞬間はちょっと苦しいかもしれないですが、一度その門をくぐったら、すごい世界に行けるわけです。ですから、死ぬということは、天国へ行けるという希望です。「神の時に死ねる」ということはありがたいですね。
エチオピアの友人から聞いた話です。彼の村のクリスチャンたちは、食料がなく飢餓で死ぬ時にも、両手を天に挙げ、「ハレルヤ!」と神を賛美しながら微笑んで死んでいくそうです。地上の苦しみから解放されることを、神に感謝しつつ喜んで死んでいくのです。その時の彼らの姿は、輝いて見えるそうです。
イエスを信じる者には、どんなことがあっても、「天国に行くという絶対的ハッピーエンド」が待っています。
ということで、あらゆる問題を解決するのは、なんとか法、なんとかの法則、という方法論ではないのです。方法や法則は、一定の条件がそろった時だけに通用するものにすぎません。少しでも条件が違えば、もう使えないのです。
このところ、「引き寄せの法則」とか、「願望をかなえる法則」とか、「法則」がもてはやされています。それらは、聖書のほんの一部分を、人間が勝手に「法則化」したものにすぎません。神そのものを、「法則」だとか、「無限の力」だとか、「無限の知恵」だとか、「潜在意識」だとか、「宇宙大生命」だとか言って、非人格化してしまっています。そこに根本的な誤りがあります。
神は、「法則」「力」「知恵」「生命」の創り主なのであって、それらをはるかに超越しておられるお方なのです。
非人格的な「法則」が人間を愛するとか、人間が「法則」や「力」や「知恵」や抽象的な「宇宙大生命」を愛するなんて、誰が考えてもおかしいでしょう。「法則」などによって生きるとすれば、人間は全く孤独な存在です。永遠に信頼をおいて愛するこのできる人格的存在の相手がいなければ、どれほど自己実現に成功しても、さみしいものです。
「神は人格を持っており、人間は神と同じ人格を持つ存在として造られている」。聖書には、こう書かれています。神はなぜ人間を造ったのか。神の最大の願いは、人を愛し、人に愛されることなのです。神と人とが相思相愛の関係を持つ。そのために人間を創造したのです。なぜなら、神の本質は「愛」だからです。なんと、神も独りだけではさみしかったのです。ご自分と対等な、愛すべき相手が必要なのです。それが人間だというわけです。
それでは、神は何のために人間以外の宇宙万物を造ったのか。もちろん、人間のためです。人間が快適に楽しくお互いに愛し合って、いつまでも神と共に生きていけるように、この壮大な宇宙万物を造ってくださったのです。なんというすばらしい神の愛でしょうか。あまりにも大きな愛に圧倒されるばかりです。
「法則」の本質は、「愛」ではありません。「法則」や「力」は、問題を根本的に解決できないばかりか、人間にとって最も大切な「愛」が欠如しているのです。
「HOW(ハウ)ではなく、WHO(フー)」
肝心なことは、ハウではなくフーなのです。「一体どういう方法で問題を解決したらいいのか」ではなく、「一体誰が問題を解決してくださるのか」がキーポイントです。もちろんそれは、全能の愛の神、オールマイティ・ゴッド。このお方にすべてを任せればいいのです。
どんな問題でも解決してくださいます。こうしなさい、ああしなさいという、具体的な導きも与えてくださいます。「そんなことで悩まなくていいよ、大丈夫だよ。私がついているから大丈夫だよ」。こうあなたに語ってくださるお方がいます。すべての問題の解決は、「イエス・キリストという愛のお方によりすがる、お願いする、このお方と一緒に生きる」ということなのです。
おかげさまで、このお方によって、私の抱えていた人生の3つの根本問題、「不安」「むなしさ」「無力感」から解放されました。言い換えれば、「生・病・老・死」という人生の四大苦から解放されたのです。生きていることに、「喜び」と「生きがい」と「充実感」を与えられたのです。(次回に続く)
佐々木満男(ささき・みつお):国際弁護士。宇宙開発、M&A、特許紛争、独禁法事件などなどさまざまな国際的ビジネスにかかわる法律問題に取り組む。また、顧問会社・顧問団体の役員を兼任する。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。このコラムでは、2004年11月6日のインターナショナルVIPクラブ広島特別講演会での講演録を再構成し、一部加筆したものを紹介する。