スラム街での伝道活動や救貧活動を行い、生協組合運動を起こしたキリスト教主義の社会運動家として世界的に広く知られている賀川豊彦(1960年没)が、1947年、48年の2回、日本人として初めてノーベル文学賞の候補となっていたことが分かった。ノーベル賞の候補者名は候補段階では公表されず、50年間は秘密される決まりで、ノーベル財団が候補者リストを公開したことで分かった。
一方、ノーベル平和賞候補として挙げられていたことは知られていた賀川だが、54年から56年まで3年連続で平和賞候補に挙がっていたことも分かった。
幼い頃に両親を失い、16歳で洗礼を受けた賀川は、結核を患い余命の限りイエス・キリストに倣おうと決意。21歳のときに神戸市の貧民街に住み、救貧活動を行った。一方、自伝小説「死線を越えて」は戦前に400万部というベストセラーとなり、十数カ国語に翻訳されている。
インドで非暴力主義を実践したガンジーと並び「東洋の聖者」として、欧米でも最も知られた日本人であった。