霊力に満ちあふれたヒーラーが登場した。人々はイエスのうわさを耳にするなら追いかけ、彼の姿を一目見ようとし、彼の声を聞こうと群がった。新伝道者の評判は口から口へと広がった。最も原始的な口コミ伝達法に過ぎなかったが、新聞やテレビなどのマスコミュニケーションよりもスピーデイにインパクトを増加しながら広がった。爆発的なエネルギーがほとばしり流れた。人々は良きおとずれを切実に待っていたのだ。イエスのミニストリー(伝道活動)は人々のうずくような期待に火をつけた。
彼は病をいやし、悪霊を追い出し、神の国の到来を語った。人々が引きつけられたのは、何よりも彼のいやしの力であった。「今まで、このようなことを見たことがない」、が口ぐちに発せられた。驚嘆、驚嘆、驚嘆、どこに行っても人々は大いなる驚きをもって反応した。彼が姿を現す場所では、驚嘆の輪が波状状態で広がったのだ。
さて、イエスに働いたこの圧倒的ないやしの力はどのようにきたのであろうか。明らかなことは、その力はイエスの生涯を通じて徐々に表れてきたのではなく、ダイナマイトが炸裂するように突然であった。少なくとも、人々の目にはそう見えた。
ダイナマイトの爆発は地形すら変えてしまい、元に戻すことができなくなる。イエスの登場は、ダイナマイトの爆発をせせら笑うほどパワーフルな大激震を人類史にもたらすことになるのだ。世界史がBC(キリスト以前)とAD(キリスト以降)と分割されるように、人類史はキリスト以前に再びもどることはない。何かが決定的に変わったのだから。
当時の人々は大いなる期待をいだいた。しかし、それから2千年たって人類史で最も有名になり、地上の無数の人々から熱情をこめてその名イエスを呼ばれる男になるとまで、心に思い浮かべた者はいなかった。この男をここまで引き揚げたパワーはどこから来たのだろうか。
イエスは大工からヒーラーへと変貌した。これほどまでのヒーリング・パワーを人びとは聞いたことも見たこともなく想像されたことも、記録されたこともなかった。
数千年のイスラエルの歴史を旧約聖書は記録し、その中には数々の偉大なヒーラーと奇跡的いやし物語が報告されているが、今イエスによって彼らの目の前で展開されているヒーリングとはほど遠いものであった。旧約聖書に記録された偉大なるいやしもイエスのものと比べるなら大きなへだたりがあるほどなのだ。
福音書にくり返し書かれた「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された」とか、その故に「人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た」、これほどの記述は旧約聖書に記載されたことは一度もなかった。イスラエル歴史上に登場した類まれなヒーラーたちとは比べものにならないほど、イエスはパワーフルであり、そのいやしのはるかに多かった。
イエスの変貌ぶりを理解するのに興味深い出来事がある。それはイエスを全く知らなかったガリラヤ地方の人々は大歓迎したことに対して、故郷ナザレの人々はつまずいた、という事件だ。
偉大なリーダーを送り出した故郷の人々は誇りとし支援するのはイスラエルも同じだが、逆にナザレの人々はイエスを殺そうとしたのだ。なぜこれほど過激な行動に出たのか。それはイエスが突然変貌したからであり、その変貌ぶりが人々の許容範囲を超えていたからだ。あまりにも、あまりにも、短期間で似ても似つかないほどに変わってしまった男を、故郷の人々は許せなかった。
イエスはエルサレムから10キロ南のベツレヘムで生まれ、父ヨセフは妻と赤子イエスを連れてエジプトに下り、そこで数年ほど暮らしてから、ヨセフとマリヤの故郷であるガリラヤ地方の寒村ナザレに帰って生活するようになった。当時、四国ほどの面積であるイスラエルには三つの地方があった。首都エルサレムを中心としたユダヤ地方、その北にサマリヤ地方、またその北にガリラヤ地方であり、文化の中心地から最も遠く離れていた。ガリラヤ地方の町や村が50ほどリストされていたが、ナザレがそのリストから外されたことは、ナザレの小ささを証している。当時は生活者三百人くらいの村落であったと思われる。そこにあったものは、小さな井戸と小さなシナゴグ(会堂―五家族あればシナゴグを立てた)だけであった。
イエスは十三歳から大工として働いた。彼が選んだ仕事ではなく、父ヨセフが大工として仕込んだからだ。大工と言っても、今日のように一軒家を建てる大工ではなかった。当時は、自分で家族とともに自分の家を建てるのがごく普通であった。ヨセフとイエスは人々が家を建てるとき、素人ではむずかしい仕事を手伝っていたのだろう。家具も作ったし、農耕器具も作った。ガリラヤ地方は細工しやすい石灰岩が豊富であったので石工としての技術も持っていた。イエスは大工というより、むしろ便利屋のようで人々の必要に答えていたと考える方が現実的である。
ガリラヤの人々はほとんど農夫であった。自給自足の生活をしていた、それが一般人の生活スタイルであった。ナザレでそれほどの大工仕事があったとは思われない。イエスの多くの時間は農業に与えられたであろう。イエスの話の題材には建築に関するよりむしろ、農業に関するものがはるかに多い。農業の知識が豊富で慣れ親しんでいたことは明らかだ。
ナザレから北へ九キロ離れたローマ都市セッフォリスの再建が、イエスと同時代に行われた。典型的なギリシャ・ローマ風の都市だが、道は碁盤の目のように整備され、商店や事務所が賑やかに軒を連ねていた。石畳の道の下には高度な下水設備も作られ、円形劇場も建設された。歴史家ヨセフスは「セッフォリスは全ガリラヤの宝石であった」と記述している。イエスがこの期間、数年間だけ大工として専念したことは想像される。
父ヨセフは若くして死んでしまった。イエスが二十歳の頃、おそらく四十歳ほどで死んだと思われる。弟にはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンと何人かの妹がいた。
残された家族のために、イエスは父親代わりになって家族の経済的責任を負って働いたし、精神的なケアーもしてきたのだ。貧しい中で家族の世話をしたことは、イエスの成長を助けたに違いない。責任を学び、教えることを学び、リーダーシップを学んだ。良い羊飼いが羊を養うように家族を養い、そのリーダーシップは夫を失った母と父を失った弟妹に仕えるというリーダーシップであった。
これで、イエスのナザレにおける生活がぼんやりとでも連想できるだろうか。ごく単純だった。イエスが社会的に突出した人物になるような様子もなく、まして世界の救い主になるヒントすらなかった。そこには、イエスが優れた律法の教師であった証拠らしきものはないし、まして奇跡的ないやしや悪霊を追放するわざなどは皆無であった。 (次回につづく)
平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。