さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ・・・」と心ひそかに思っていた。(ルカ7:36~39)
猛暑の日々が続いていますが、夏の光のエネルギーに勝る神の光を受け、躍動感のある夏の日々を歩み、本気で恵まれていこうではありませんか。
先日は各地でビル・ウィルソン先生とのセミナーを行い、この先生から湧き出す信仰の熱量をもろに浴びながら学ぶところ大でした。75歳でありながら、ますます信仰に燃えています。人の顔色を見て、人との関係だけで生きるのではなく、神との関係の中で生きる人生があると思わされます。
今日の箇所では、パリサイ人のシモンの家に罪深い女がやって来て、涙でイエス様の足を濡らし、髪で拭って高価な香油を注いだと書かれています。ここで、イエスに対する真っすぐな信仰の在り方について見ていきたいと思います。町中の人が知る罪深い女が入ってきたことに、シモンはすぐに反応しました。ここに2つの対照的な姿があります。
1. イエスに対する態度の違い
このパリサイ人は、イエスが本物の預言者なら、この女のことを見抜くだろうと考えていました。彼が見ていたのは何ですか。人のことばかり見て比較し、人を裁く姿がここにあります。
一方この女性は、家に入っていいか許可も得ず、人のことなど眼中になく、イエス様に近づきたい、ただその一心でした。パリサイ人は、人の評判を気にし、自分も裁判官のように人の魂の値打ちばかり量ろうと考えていましたが、女性の方は、人間の世界では非難されても、その心にはシンプルにイエス様だけがいました。私たちも、イエス様だけに集中したいのです。
2. 行動の違い
シモンは、彼女がイエスに近づくだけで、気分が悪かったでしょう。清さを求めるパリサイ人の家に罪深い女が無断で入り、高価な香油を家の中でイエスに注ぐとは。当時の人からすると非常識だったことでしょう。足を洗うなら外ですればいい。そんな常識はずれなことはしないでほしい。彼女の行動は、シモンにとって迷惑千番で、何もしないでほしかったのです。
しかし、何もしなかったら、イエス様は喜んだでしょうか。イエス様はシモンに「あなたは足を洗ってくれず、口づけもしてくれなかった」と、しなかったことを追求されたのでした。イエス様はやらないよりやった方がいいと言われたのです。
私たちは大抵、人がしたことを批判します。変な理屈に偏ると、しない方がいいという悪い流れに心がとらえられます。ただシンプルに、イエス様に向かって行動しましょう。
3. 基準の違い
パリサイ人の望んだことは、自分の思いが実現すること、単なる自己満足です。いつも自分が基準で、イエス様の価値さえ量ってやろうと思っています。神以外に人を裁くことはできないはずなのに。しかし、この女性は、イエス様に近づき、自分の愛と感謝を表すことを望んだのです。
彼女の心の中心には、イエスがいました。私たちも、自分が何を見、イエスに何を感謝しているのかを明確にしましょう。イエス様以外に見えないというくらい、イエスに集中したいのです。人の目ばかり気にするのではなく、信仰を込めた行動を起こし、常にイエス様に結び付く者になりましょう。神様からの濃厚なエネルギーを頂き、信仰の原点に立ち返りましょう。
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