人は、何を土台にして生きているかを、試練によって試されます。
「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました」(ルカ6:47〜49)
聖書は、地面を深く掘って岩の上に家を建てることと、土台なしで家を建てることを対比して語ります。土台とは、何が変わっても揺れ動かない確かな地盤です。例えば、海岸の砂浜のように、波が押し寄せて来るたびに形が変わってしまうものは地盤とは言えず、土台になりません。
私たちの住む世界において、何が変わっても変わらない地盤となるものはあるでしょうか。「形あるものは必ず壊れる」といわれます。つまり、この世界において土台にできるものはないのです。命の息のある人は、いつか必ず死にます。全宇宙も、地球も、その中に住む全ての動植物も、全てが限りあるものです。あらゆる価値観、哲学、宗教も、今は通用しても、やがてすたれてしまいます。
聖書は単なる宗教書ではなく、全人類と全被造物を造られた神の言葉です。故に、変わることがないし、変わる必要もありません。そこに自分の土台を据える人は、聖書が言うように「洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした」(ルカ6:48b)という確かな人生を生きることができます。
「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人」(ルカ6:48a)とは、どんな人でしょうか。「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たち」(ルカ6:47)のことです。聖書が語る「神」の元に行き、「神の言葉」を聞いて、実行する人のことです。
神は、約2千年前にひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わされました。神の元に行くとは、修行をし、真面目になり、良い人間に変わって、神のおられる天に近づいていくことではありません。神の側からあなたのところに来られたイエス・キリストを受け入れることです。
「何もしなくていい、ただ信じなさい!」と言われるのです。神にお任せし、自分に死ぬことです。さらに、神の言葉に聞き、それを実行することです。神の言葉を聞いて実行するとは、具体的にどういうことでしょうか。
① 神が遣わされたイエス・キリストを信じること
② この方を人生の主と迎えること
③ 洗礼を受けること
そこから人生の土台作りがスタートします。私は、数え切れないほどの人に洗礼を授けてきました。しかしそのうちの多くの人が、洗礼を受けたことでキリスト教を卒業してしまいました。これは大きな勘違いです。イエス様を信じて洗礼を受けるとは、キリスト教の入学式なのです。そしてキリストにつながり、キリストと一体になり、キリストと共に歩み続けるのです。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)
卒業とは、天国に入る日です。キリストというぶどうの木につながった途端、「はい、卒業させていただきます」というのは、一瞬キリストにつながって、再びキリストから離れてしまうようなものです。聖書は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)と語ります。
それは、確かな土台に一瞬だけ家を建てて、すぐに土台から切り離し、海岸の砂浜にポンと置いただけの家みたいなものです。干潮の時には問題なくても、満潮になったら水があふれますし、台風がやって来て、大波や高潮が来たらひとたまりもありません。大地震が起こって津波が来たら、ぼろぼろにされてしまいます。
確かな土台の上に自分自身を据えたら、その土台は一生動かしてはいけないのです。何も問題のないときは、確かな土台のありがたみを感じませんが、問題が起こり、試練がやって来たときには、確かな土台のありがたみがはっきり分かります。
あなたは、土台なしで生きていないでしょうか。つまり、移り変わり、消えてしまう、壊れてしまうものを頼って生きていないでしょうか。確かな土台にあなた自身を据えて、それに頼って生きていきませんか。
それは、いつ行ったらよいのでしょうか。聖書は「今」だと語ります。
「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(2コリント6:1、2)
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