ダビデは「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう」(詩篇139篇7節)と語りました。どこにいたとしても、どんな状況にあったとしても、主の御霊は常に共におられます。
もちろん、旧約聖書時代と今の教会時代では違いはあります。旧約聖書時代には、特定の時に、特定の人に、特定の目的のために御霊は注がれました。しかし、イエス様が十字架で死なれ、葬られ、よみがえられ、昇天し、ペンテコステの聖霊降臨の後には、御霊はいつでも、どこでも偏在されています。
問題は、御霊の側にあるのではなく、私たちの側にあるのです。この方を忘れてしまうことがあるのです。御霊は三位一体の第三位格であられ、神ご自身です。せっかく共にいて、助けてくださろうとしているのに、この方を忘れて、自分で考えて自分で結論を出したり、助ける力を持っていない人に頼ったりするのです。
御霊は、父の御霊であられ、イエス様の御霊です。父とイエス様と同じ性質を持っておられます。愛であられ、恵みであられ、まことであられます。優しく私たちの反抗する性質を十字架につけるように導かれます。そして、キリストの姿に変えられるように訓練されます。そして、良き実を結ばせてくださいます。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」(ガラテヤ5:22、23)
私たちと交わり、私たちと共におられ、私たちと一体になって助言をし、力を与え、必要なものを与え、働きを助けてくださり、きよめ、生かし、とりなし、助けてくださいます。御霊を忘れ、この方に頼らないことは愚かな罪です。御霊を意識し、認めましょう。そして、絶えず満たされ続けるように求めましょう。御霊は、ご自身を求める者を喜んでくださいます。しかしご自身を忘れ、無視し、排除する者を悲しみ、痛まれます。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖(あがな)いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」(エペソ4:30)
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