1849年。コロバングでの生活にも慣れてきた頃、再びリビングストンはアフリカ奥地を探検したいという情熱を抑え切れなくなった。首長セチェレもたびたび大首長セピチュアネのことを話しては一度会ったほうがいいと勧めた。そして、彼が幻の湖に住んでいると教えてくれるのだった。
5月になると、思ってもない機会がやってきた。トマス・オースウェルとマレーという2人の英国人狩猟家が砂漠に探検に行くので一緒に行かないかと誘ってきたのである。5月31日。リビングストンはトマス・オースウェル、マレー、そしてメバルーエと数人の従者と共にコロバングを出発した。彼らは幾つかの町や村を通過したが、どこでも熱狂的な歓迎を受けた。
カラハリ砂漠に差し掛かると、旅は急に苦しいものになった。水は切れ、食料は底をつく中で、一行は荒れ果てた道をひたすら進んだ。そのうち出発してから6日目、突然川のほとりに出た。ゾウガ川だった。その水をたっぷり飲み、川に飛び込んで泳いだりして休息をとっていると、黒人の従者たちは大きなかぶらのようなものをたくさんとってきた。名も知れぬ地下茎だったが、煮て食べると大変おいしかった。「他のやつらは死んでも、先生にはどうしても生きていてもらいたいんだ。だってみんなの大切なお父さんだから」。一人が言った。リビングストンは胸が熱くなる思いだった。
ゾウガ川の付近を探検するうちに、不思議な光景を見た。北側から大きな川がゾウガ川に流れ込んでいるのである。地図を調べると、ゾウガ川は架空のものとされているヌガミ湖から東に流れているはずだった。どうしてこんな所に別の川があるのか。リビングストンは現地の老人をつかまえて聞いてみた。老人は歯の抜けた口で言った。「へえ、北に行くとこんな川たくさんありますだ。木が生えていて、その間を水がゴウゴウ流れています」「そんなはずはない。だって中央アフリカは見渡す限り砂漠で、人や家畜は住めないというのが地理学者の定説じゃないか」「とにかく行ってみなせえ。川と湖と森に出ますだ」
「湖だって? それどこにあるんです?」思わずリビングストンは叫んだ。老人は川を西へ西へとたどっていけば幻の青い湖に出ると教えてくれた。リビングストンは一行が休んでいるテントに飛び込んだ。「分かりましたよ! 幻の湖とはヌガミ湖のことだったのです。きっとそこに大首長セピチュアネが住んでいるのでしょう。このヌガミ湖は架空のものではなく、実在するのです。この湖から無数の川が下り、一帯は木の茂った肥沃の土地だったのです」
こうして力を新たにした一行は、間もなく鏡のようになめらかで青い湖のほとりに立った。これこそ今までに誰一人ここに来た者はなく、今静かに湖はその眠りから目覚めたのだった。1849年8月1日のことであった。
この後、オースウェルは、ケープタウンに戻って新たに準備してから、また来るというので、リビングストンは今まで探検した場所の地図や土地の記録、ヌガミ湖発見の経過や動物・植物、現地の人々の生活記録――を細かく正確に記して、彼に渡した。「これをケープタウンにいるスティール大尉に渡してください」そう言って送り出した。彼は翌年の3月までコロバングにオースウェルを待っていたが、彼は姿を現さなかった。ケープタウンに手紙を出したところ、オースウェルはリビングストンから預かった報告書をすでに「ロンドン王立地理学会」に提出してくれていた。
1850年4月のことであった。一行が北に出発して間もなく、メアリーが体調を崩し日射病にかかってしまった。リビングストンは彼女を気遣い、コロバングに返そうと思ったが、彼女は強引についてきた。ところが、もう少しでヌガミ湖に着くというときに、今度はアグネスと末っ子のトーマスが熱病で倒れてしまったのである。メアリーは自分も体調が優れないのに、つききりで彼らの看病をし、そのまま床に就いてしまった。今はコロバングに引き返すしかなかった。
一行が病人を乗せたタンカを運びながら、痩せ細った2、3頭の家畜と共にコロバングに帰ってくると、ちょうどモファット夫妻が来ていて、非難を込めた口調で危険な探検に妻や子どもをつれていったことをなじった。また、リビングストンがエドワーズとけんか別れしたことについても不満を持っていた夫妻は、置き手紙をしたまま彼に一言の断りもなくコロバングを発ってしまったのである。
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<あとがき>
コロバングの生活にも慣れてきた頃、リビングストンは、あの大首長セピチュアネが住むといわれている「幻の湖」の探検に出掛けました。そして、地図には記載されているが実際には存在しないという架空のヌガミ湖が本当に存在し、それこそが「幻の湖」であることを発見したのでした。
記念すべきこの発見は1849年8月1日のことでした。リビングストンは、発見の経過やいきさつ、そして詳しく記した地図などを報告書にまとめ、ケープタウンに帰るという仲間のオースウェルに託し、それを「ロンドン王立地理学会」に提出してほしいと頼みました。その後、この発見が学会で大きく取り上げられ、新聞に大きく報道されることになるのですが、リビングストンにはこの栄光の後、悲しい出来事が待っていました。妻のメアリーと子どもたちが熱病にかかったことから、メアリーの両親であるモファット夫妻はリビングストンに不信感を抱き、両者の間に溝ができてしまったのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。12年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。