ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、・・・(ヘブル12:12〜15)
神を見ることができるのでしょうか。幽霊や悪霊を見た人などの話は、時々耳にすることがあります。聖書では、天地の創造主なる神を信じ、礼拝や賛美をささげ、悔い改めてきよめられた人は、霊的な心の目により神を見るようになると書かれています。
1. まっすぐ
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。(ヘブル12:12、13)
「ですから」とあるのは、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:6)とあるように、「御父は、愛する神の子たちの人格を聖別するために、懲らしめのムチで養育しているので」という意味です。1)「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにし」、2)「足のためには、まっすぐな道を作りなさい」とある意味は、「あなたは、1)弱った信仰の行動力と不安定を悔い改めて、行いのある信仰と従順の信仰を強めなさい。2)信仰を前進させるため、すべてに信仰を心掛けなさい」ということです。
信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14:23)
まっすぐな道を作り、すべてに信仰を心掛ける理由は、「なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるため」とあるように、「信仰の弱い人が信仰の道を歩むとき、試練で不信仰に陥らないため、いやむしろ、信仰が強くされるため」なのです。
2. 主を見る
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(ヘブル12:14)
「聖くなければ、だれも主を見ることができません」ので、「すべての人との平和を追い求め」「聖められることを追い求めなさい」ということです。平和追求と聖別追求する信仰で、主を見ます。
ダビデは、信仰によりイスラエルの王として神が立てた、唯一の王です。イエス・キリストもダビデの血筋から生まれました。そのダビデが、主キリストと自分との関係を告白しています(詩篇16:8〜11)。
ダビデはこの方について、こう言っています。「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」(使徒2:25〜28)
主キリストを見ることの意味は、信仰の安定と心の余裕、そして希望による平安です。不信仰に陥って滅びることがなく、いのちの道を知らされ、悔い改めと従順により信仰が成長し、強くされます。
3. 苦い根
そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、・・・(ヘブル12:15)
主を見て御国の祝福を得る目標を目指して、皆で注意し合い、それぞれが信仰の努力で前進し、誰も落伍者が出ないようにしましょう。また、心の苦々しい感情である「苦い根が芽を出し」、信者間で訴え合ったり裁き合ったりして、教会を悩ましたり、多くの人が巻き込まれて罪咎(とが)で汚されたりしないように、互いに注意し合いましょう。
まとめ
- 信仰を前進させるため「まっすぐな道を作り」すべてに信仰を心掛けるならば、信仰の道を歩むとき、試練にあっても不信仰に陥らず、むしろ信仰が強くされます。
- 平和追求と聖別追求する信仰で、主キリストを見ます。
- 主キリストを見た人は、信仰の安定と心の余裕、そして希望による平安が与えられます。信仰によるいのちの道を知らされ、魂が滅びることなく、悔い改めと従順により信仰が成長し、強くされます。
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