また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。(ヘブル12:16〜22)
祝会は良いもので、入学や就職、結婚などの祝会はとても喜ばしく楽しいものです。聖書によれば、世の生活には病や争い、試練があり、世界情勢には天変地異や患難、大患難がありますが、大祝会に近づいているのだと書かれています。どのようなものか、聖書から読み解いてみましょう。
1. 長子の権利
また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。(ヘブル12:16、17)
神はアブラハム(BC2000)に対して、選民としての多くの子孫を約束し、その選民契約を子イサクが相続したのですが、イサクの第2子ヤコブを通して神は契約を実現させました。
イサクの第1子はエサウでしたが、エサウは外に出ることが好きで猟をして日頃生活していて、弟ヤコブはもっぱら家にいて母親と仲良く生活していたようです。聖いキリストが嫌うような汚れた「不品行の者」でないようにすることが、第一に必要です。空腹だからといって弟ヤコブに煮豆「一杯の食物と引き替えに」「長子の権利を売った」、長男エサウのような俗悪な者でないようにすることが、真のいのちを得るために必要だと聖書は言います。
兄エサウは、父イサク臨終の席で、弟ヤコブに相続権が渡ってしまったことに気が付き、父に「涙を流して求めて」「祝福を相続したいと思ったが、退けられ」「心を変えてもらう余地がありませんでした」。
私たちは、キリストを信じて長子キリストの似姿とされ、「長子の権利」を得るのですから、私たちの肉的な欲と引き換えに、長子としての天の資産を手放してはいけません。23節「長子たちの教会」とあるように。
キリストより占いや他の宗教を選んだり、キリストよりお酒や遊興を選んだり、キリストより自分の都合や計画を選んだりして、自己満足のために神の資産相続権を悪魔に売ってしまうような、俗悪な者にならないよう気を付けなさい、と聖書は言います。
2. ことばのとどろき
あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。(ヘブル12:18〜21)
モーセ(BC1500)が、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放した47日後に、神は「手でさわれる山」シナイ山に降りてこられて、モーセやアロン、70人の長老たちは登って神を直接見て「燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいて」十戒と律法のすべてを神から直接聞くことになります。
神からの「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に、民は耐えられませんでした。「このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願った」ような強烈な「ことばのとどろき」だったのです。顔と顔とを合わせて神と語り合ったモーセでさえ、その光景を見て「私は恐れて、震える」と言いました。神は、ご自身の聖さを神の現れで表し、人が聖なる神を信じ罪の聖(きよ)めを受けずに神の山に触れれば死ぬことを、その光景で示しました。
神である主は、ご自身による臨在と現れによる圧倒される現象で、神の民が神を信じ「ことばのとどろき」に従うかどうかを試みました。神キリストが神々の一人にすぎないと感じれば、信仰者たちはいつか不信仰になり、御言葉に対し不従順し、弱い人間は占いや偶像の神を拝む生活に戻っていきます。だから、神と出会ったときの感動を忘れず「初めの愛から」離れないように、と聖書は言います。
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示2:4)
3. 大祝会
しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。(ヘブル12:22)
「シオンの山」の霊的な意味とは「イスラエルの首都エルサレムを囲む山々のことで、神の民が御国に入るため神から守護を受けていることの象徴」です。「生ける神の都」とは「永遠の昔から存在し、天地万物と人間を創った創造主である、いのちを持った生ける神が、神の子とされた人間たちと共に生きる、神が統治する都」のことです。「天にあるエルサレム」の意味とは「地上のエルサレムは、神の民が契約通りに神の国を信仰によって相続することの象徴であり、神によってすべてのご計画が達成された後、最後の審判に続いて天にあるエルサレムが下って来て、神の子たちが入る」ということです。人知を超えた、神の壮大なご計画が、天のエルサレムに秘められています。
「無数の御使いたちの大祝会」の意味は「御使いたちは、神に創られた神と人とに仕える霊であり、天地創造の初めから、天のエルサレムで神と人とが共に住む日まで、試練、患難、大患難の中で労役してきたので、天のエルサレムが完成したときに大祝会をする」ということです。花婿キリストと、救われた民が皆入った花嫁なる天のエルサレムに対する、結婚の大祝会なのです。
ここに書かれた「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会」という4つの霊的象徴の御言葉によって、神の壮大な御国建設に関するご計画の、実際的遂行過程が表現されているのです。結婚の儀式の最後は大祝会だから、御国建設の最後も大祝会なのであり、今の時代、私たちは大祝会に近づいているのです。
まとめ
- 私たちは、キリストを信じて長子キリストの似姿とされ、「長子の権利」を得るのですから、私たちの肉的な欲と引き換えに、長子の天国相続権を手放してはいけません。
- 神キリストが神々の一人にすぎないと感じれば、信仰者たちは不信仰により御言葉に不従順になり、人間は占いや偶像の神に戻っていきます。だから、神と出会ったときの「ことばのとどろき」と神キリストとの「初めの愛から」離れないように、と聖書は言います。
- 神が立てた永遠のご計画は、今の時代、私たちを取り囲んで進んでいて、創造主である神キリストが私たちの内で生きて働き神の都を建設していて、最後の審判の時には、天のエルサレムが下って来て、私たちはキリストと共に生きる生活に入り、婚姻の大祝会が無数の御使いたちの力で執り行われます。今、私たちはこの天のエルサレムでの大祝会に近づいている、と聖書は言っています。
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