会議の前にニンニクとんこつラーメンを食べた人がいました。当人は何も匂わないと感じていますが、周りの人たちは我慢できないほど強い匂いがするのでつらかったと言います。
このように、息の臭いを含めて、人は自分の体臭について分からないものですが、なぜか周りの人は分かるのです。同じように、罪に関しても自分では分かりにくいのです。しかし、罪は自覚してもしなくても、その性質を誰もが持っています。
イエス様は「『罪がない』と言い張るところにあなたの罪がある」と語られました。罪に対して、これはとても深い洞察です。罪を自覚できないということは、罪がないとか、罪が少ないのではなく、もっと罪深いということなのです。
19世紀のロシアの文豪である「トルストイ」は、「人間の最大の罪は鈍感さだ」と言いました。鈍感だと、自分の罪が分からなくなり、罪の赦(ゆる)しが必要だと感じられないので、イエス様が必要なことが分からなくなります。
この状態に陥ると、さらに困ったことが起こります。自分の罪には鈍感なのに、人の罪には敏感になり、自分を棚に上げて人を裁けてしまうのです。
これでは悪循環です。聖書は、人をおとしめ、引き下げ、気分を悪くさせるために罪を語るのではありません。人を赦し、解放し、救うために語っているのです。
「私は人に迷惑をかけないように生きているし、人と比べて罪深いとは思わない!」と感じる人がいますが、罪の基準は自分にあるのではありません。神にあるのです。神の基準で見たら、私もあなたも罪人です。
トルストイが言う罪深さの極みが「鈍感」なら、使徒パウロのように「私は罪人の頭です」と敏感になれる人は、罪の反対の義に近い人なのかもしれません。あなたは、神に対して罪を持っています。しかし、「私には罪がない!」と言うなら、自分と神に対して欺いているのです。
罪とは、犯罪などの行為以前の「神から離れた状態」を指します。創造者であり、いのちの源である神から離れていたことを認め、神に立ち返る毎日でありたいと思います。
ステキな一日でありますように。
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