教会内の団体
教会内の団体が、発展の阻害になることは大いにあり得ることである。横断的な教会内団体は、考え直したほうがいいだろう。つまり教会員のうち「該当するものはすべて所属する」形のものは弊害が多い。婦人会、青年会、壮年会などである。これが重荷になることが多い。
このような会の、リーダ的な人物の包容力が問題となる。それが原因で、礼拝出席が重荷になることがある。よく考えねばならない。教会内の青年会なり婦人会なりは、別に福音の要求ではない。どうしても日本人が団体を作ると、責任者は「家族のように」、または「親しい付き合い」を目標とする。または、全員がそれに所属していないと焦る。そうでないと、失敗しているように思ってしまう。
教会に集まる人は、主を礼拝に来ているのであって、「〇〇会」に所属することは決して主要な目的ではない。その会に関する努力で、疲れてしまうことがあり得る。そうして、本末転倒になることがある。
だいたい教会が大きくなり礼拝を2、3度持つ頃になれば、そのような横断的な会は持てなくなる。だから大教会では、このような会はあるべき正常な姿、つまり少数の人のグループになっている。もちろん教会内に下部団体が存在するのは健康である。その場合、いろいろな奉仕のプロジェクトごとの会がいいだろう。
大きな仏教寺院に行くと、裏のほうに祠(ほこら)があったり、さらに細い道を上っていくとまた社(やしろ)があったりする。つまり日本人にとって、宗教とは一人になれる場所があることがポイントである。ほかのことでは旅行でも団体でやる、集団でいつも一斉にやる。それが苦でないのが、日本人である。その日本人には、孤独になりたい気持ちは強い。そこで宗教こそ、孤独にさせてくれ、勝手にやらせてくれるもの、という観念がある。
だから「さざえ堂」のように、ぐるぐるまわりながら殼の内部のようなところを上がっていく、階段の途中で銘々に仏像を拝みながら上がる。このような堂は、多数が一斉に出たり入ったりするようには設計されていない。多数の人間が、それぞれ孤独になれる仕掛けである。
断っておくが、それは決して教会の真の最終的な姿ではない。しかし一般の日本人の宗教の概念がそうである以上は、初心者のために、部分的にそのような入り口を作ってあげておくことは有効ではないか。先に述べたビデオのブースを作っておき、ビデオを見るために来てもらう、などのこともうまく機能するかもしれない。
前に述べたようにビデオ・シリーズは親業についてとか愛情問題とか、聖書から出た生活の智恵、聖書的な処世術のようなものもそろえておくと有効であろう。友人に連れられてきて、他の人に会わずに済み、しかも福音に接することができる。
日本人は好きなときに、寺社に「お参り」に行く。そろって行くのは、冠婚葬祭以外はお祭りのときだけである。だから「交わり」を求めては、宗教には行かない。その日本人の性癖に、入り口は合わせるのである。入り口を工夫せねば客は来てくれないだろう。
主婦でも学生でも、教会に学習に行くのだが、一緒に来ないかと友人を誘う。別に誰にもあいさつしなくてよい、牧師に会うこともない、と言う。そうしてビデオ・ブースに直行する。15分のビデオを2本くらい見て帰る。また誘う。
そういうことも可能である。そうやって15分のビデオを10本も見れば、何かが起こるだろう。ビデオは、自分で作ればよい。どうせいつも説教しているのだ。そのうちに見直して、よくないところはやり直す。自分の説教の勉強になる。何より説教が短くなるだろう。ダラダラ長いのは、それだけで人を遠ざける。
初めての人が教会に行って、緊張して座っていると、前から詰めてくださいなどと指示される。いじけて隅に座りたくても許されない。それは、日本人の宗教意識とは違う。隅でも柱の陰でも、どこに座ってもらってもよいはずである。そういう相手の気持ちを汲まねばならない。
教会の入り口
キリスト教会の入り口として、幾つかのものを用意しておく必要がある。まず、興味を全然持っていない人のためにやるもので、福音を必ずしも含まないプログラムである。学ぶことを好む日本人であるから、英会話など好適であろう。主婦の料理教室、手芸などもある。何でもいいから、教会の敷居をまたいでもらうのである。
バザーも、その意味でよい機会である。北海道とか、地方から名産品や農産物を取り寄せて、原価で売ることもいいだろう。利益は考えない。近所の人や、友人を誘うためのものと割り切る。天気が良ければ、外でも売る。敷居はまたがなくても、教会の前に立ち止まってくれただけでいい。物が良ければ、好感を持ってもらえるだろう。それでいい。
次いで講演会、また音楽会を用意する。クリスマス・イブ礼拝も、地域の人を積極的に誘う。お参り感覚でいいので、楽しいクリスマスのお祭り、少し厳粛、それでいい。そうやって、教会は人が軽い気持ちで「入り」「出る」ところとする。入ってきた人をつかまえようと狙って、虎視眈々(たんたん)というのはいけない。狙っているのに、狙っていませんみたいなフリをすると余計にぎこちなくなる。そうして定期の礼拝を守る。
このように少なくとも三段の構えが必要だろう。1)まったく興味のない人のための、福音を必ずしも含まないプログラム。2)興味を持っている人のための、お祭り的なプログラム。3)礼拝。
3の礼拝しか持っていない教会は、発展は見込めないだろう。伝道の天才というような牧師がやれば別だが。この三段構えの体制の良い点は、教会員自体の姿勢が変わるということである。そうして人を迎える努力と、来てもらううれしさを味わうのである。伝道自体は難しいことであっても、三段構えでやれば、雑用が多くあって、役割を皆に広く分けられる。伝道というと身がすくむが、お祭り的なものなら張り切ってやる人もいる。そういう人が、あるいは5年後には進んで個人伝道者になっているかもしれないのである。
また家庭集会も有効で、各家庭が年に一度は行うように勧めるのもよい。クリスマスなら誘いやすいので、必ずしも礼拝に結び付くように考えなくてもいい。ともかくやってみるのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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